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中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ (竹田 青嗣)

 竹田青嗣氏は、自らの「自我」の経験を振り返りを、本書のテーマである「哲学入門」の導入として語っています。

 20歳代、竹田氏にとって、数ある哲学思想の中で理解できたものが「現象学」だったといいます。
 竹田氏が紹介する「現象学」のポイントです。

(p40より引用) 最も大事なポイントは、まず、人間が何かを認識するというとき、事実を知るという問題と、「了解する」とか「納得する」という問題は本質が違うということ。次に、前者は「誰が見てもこう見える」を探す方法だけれど、後者は、「自分の中でぎりぎりこう了解するほかはない」という形で、いわば“後ろ向き”に現われる納得の問題であって、両者をはっきりと区別する必要があるということ。そして、人間や社会の認識の場合は、後者のタイプの認識である、ということです。

 著者は本書で「哲学とはどういう学問か」ということを、宗教や自然科学と比較しながら説明していきます。その中で、宗教との違いとしてその「方法」を挙げています。

(p75より引用) 哲学で大事なのは、あくまでその「方法」なのです。
 ・・・哲学の方法の特質は、①概念を使うこと、②原理を置くこと、③再始発すること、です(再始発は、後の人が、先人の提出した「原理」に対して、幾度でも新しい「原理」を提示できるということ)。哲学はこの方法で、どんなこともテーマにして考えます。実際、哲学は、自然や社会や人間や神などの問題について徹底的に考えてきました。

 また、著者は「哲学とは」の説明として「哲学はゲームだ」と語っています。
 ゲームには「ルール」が必要です。哲学の方法におけるルールは、「あることがらの一番大事なポイントをどんな言葉で呼べばよいか」を探すというものでした。

(p117より引用) 哲学は、それ自体が「本質や原理を上手に探していくゲーム」と言ってよい。・・・
 「本質を見つける」とは、「絶対的な認識」をつかむということではなくて、みんなの中にうまく共通の了解を作り出してゆく、ということなのです。

 さて、哲学が「社会の成員の共通了解」を生み出す方法だとすると、そういう方法を採りうる社会的状況がなくては哲学は存在しえません。
 この条件を満たしたものが「近代社会」です。近代社会以前は「実力支配の社会」でした。近代社会は、「全員で作ったルールによる対等なゲーム」の仕掛けとして登場しました。

(p123より引用) 近代社会のいちばん中心の原則は、だれもが自由で平等であることを誰かが(神や、政府や、その他が)認めている、というのではなく、社会の成員がそれを「相互承認」する意志をもつ、という仕組みにあるということです。哲学ではこれを「自由の相互承認」と言います。

 「相互承認」という営みが認められている社会においては、多くの人が共通にもつ「一般欲望」が形づくられます。これは、「自由恋愛」「職業の自由」「社会的承認」といったものですが、もっと分かりやすい例でいえば「きれいになりたい」とか「お金持ちになりたい」・・・といったものもそうです。

 しかしながら、この「一般欲望」はすべての人にとって叶うものではありません。そこに挫折や絶望といった大きな壁が立ちはだかります。

 ここで、「一般欲望」に抗い、この精神的な苦難を乗り越えるために、「自己のルール」=「自分の意志をもつこと」がとても大事になるのです。著者は、本書を通してこのことを今の若者に訴えてかけています。

 本章のタイトルは「中学生からの哲学「超」入門」ですが、内容は決して中学生レベルではありません。情けないのですが、正直なところ私としても2割理解できたかどうか・・・。



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