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グローバル・マインド 超一流の思考原理―日本人はなぜ正解のない問題に弱いのか (藤井 清孝)

経験からの資産

 著者の藤井清孝氏は、マッキンゼーを皮切りにケイデンス、SAP、ルイ・ヴィトンといった外資系企業の日本法人の社長を歴任した経歴をもっています。以前読んだ「外資系トップの仕事力」という本にも登場していました。

 本書は、藤井氏の多彩なビジネス経験をもとに、グローバル化された経営環境における「日本の人材のあり方」に対する著者の提言をまとめたものです。

 まずは、近年の新自由主義の潮流をふまえた「資本主義の位置づけ」に関する著者の見解です。

(p63より引用) 過剰な流動性、行き過ぎた証券化、顧客を無視した自己勘定のビジネスなどは、強欲さをとことん追求する態度ゆえに生まれたバブルであり、アメリカのシステムの欠陥を露呈した。しかしながら、これらは資本の論理自体を否定するものではない。過度なレバレッジを背負い込み、規制の緩かった投資銀行モデルは破綻したと言えるが、企業に健康的なプレッシャーをかけ、資金を循環させる本来の資本主義まで否定するのは正しい議論ではない。

 このあたりは極く普通の常識的な考えです。
 が、やはり実経験に裏打ちされた参考になる指摘も数多くありました。

 そのうちのひとつ、「新しいことを素早く学ぶ勉強法」について。
 著者は、全くの部外者として社長というポジションに就くという経験を2度3度しているわけですが、その中で得た“ポイント修得術”です。
 その肝は、以下の4つの要素からなるフレームワークです。

 「コンテキスト」=物事の背景、
 「ドライバー」=牽引車、
 「トライアンギュレート」=三角測量、
 「トレードオフ」=物事のトレードオフの平衡点をつかむ分析力、

 その中で、たとえば「トライアンギュレート」については、こんな感じで解説しています。

(p98より引用) 「トライアンギュレート」は・・・物事の情報収集時に、ある意見に賛成、反対、中立の立場をとるであろう三つの違う測量点を持って、その事象を立体的にとらえることである。・・・
 新社長に就任したばかりで、会社の製品の実力を判断したいときは、営業から技術的な弱みを、技術側から営業力の弱さを、顧客からは正直な意見を聞く。ここでのポイントは、当然ある事象を批判するであろう立場の人からの意見をベースにし、それをポジティブに訂正していくプロセスを経て、等身大の実像を得ることである。

 また、以下のような「社長業」についてのコメントも納得感があります。

(p100より引用) 社長業では、「Consistency(コンシステンシー:一貫性)」と「Persistency(パーシステンシー:執念)」が肝要と痛感した。・・・トップの使命の大きな部分は、軸のぶれない同じメッセージを繰り返し、繰り返し叩き込むことだ。そしてそれは、事業に対する「熱意」からくるものだ。社長の「熱い思い」をベースにしたしつこいメッセージの発信は、社員に伝染し大きな共鳴を生む。

 社長に限らず、広く「リーダー」の位置づけにある人は、チームとしての総合力を最大限に発揮させるミッションを持ちます。最終的には「一人ひとりのメンバの力の奮い方」のシグマ(Σ)に帰着します。

(p147より引用) たとえ話だが、昔ある国で国王の命で人民が大寺院を建立していた。そこで石を研いでいる石工に「あなたは何をしているのか」と聞いたところ、一人の石工は「私は石を研いでいます」と答え、もう一人は「大寺院を造っています」と答えた。最初の石工は自分の石を研ぎ終わると家に帰るであろうが、もう一人は、ほかに自分ができることを見つけて、寺院造りに精を出すであろう。組織の強さは、後者のような石工の数で決まる。
 リーダーの役割は「大寺院を造っている」という目線を、現場のスタッフにも共有してもらうことである。

 メンバ一人ひとりが描く「ゴール」の違いは、合計すると大きな差になります。さらに、パワー綜合の過程は「足し算」ではなく「掛け算」の側面ももっています。そうなると個々の力の差はとてつもなく大きな総合力の差に至ることになります。

 リーダーが重要たる所以です。

ブランドの比較

 本書では、著者の日米欧でのビジネス経験を踏まえた「日米もしくは日米欧の比較論」がいくつか提示されています。

 その中でも、私として関心をもった「ブランド」についての著者の指摘をご紹介します。
 そこでは、著者のルイ・ヴィトンジャパンの社長経験から、いわゆる「高級ブランド」の日米欧の特徴を分りやすく述べています。

 まずは、「アメリカ」です。

(p148より引用) アメリカ発ブランド-我慢できず売上至上主義に走る
・・・アメリカ企業は一度ブランド価値が向上すると、それを「刈り取り」に入るのが早い。すなわち、「名前貸し」のライセンス商売を始めるのである。・・・気がついてみると、丹念に育てた高級ブランドが中国製の靴下についているのを発見したときは、もう手遅れというわけだ。

 アメリカ企業に多く見られる「短期利益追求」の姿勢がここにも表れています。この性向は、「高級ブランド戦略」という面では不利に働くようです。

 つぎは、「ヨーロッパ」。
 こちらは「高級ブランド」発祥の地です。

(ア) (p150より引用) ヨーロッパ発ブランド-顧客ニーズを聞かない商品開発で「ワクワク感」をつくる
・・・実際にルイ・ヴィトンの商品開発では、「顧客のニーズをあえて聞かない」雰囲気があったように思う。・・・
 そこには、トップブランドの使命は市場を創造することであり、大衆や競合に迎合し、市場を追従することではないとの矜持があったように感じられる。

 同じ趣旨のことをHONDAの本田宗一郎氏も語っていました。
ものを作ることの専門家が、なぜシロウトの大衆に聞かなければならないのだろうか。それでは専門家とは言えない。どんなのがいいかを大衆に聞けば、それは古いことになってしまう。シロウトが知っていることなんだから、ニューデザインではなくなる。大衆の意表にでることが、発明、創意、つまりニューデザインだ。」
 トップブランドのクリエーターの共通の気構えです。

 そして、最後は「日本」。

(ア) (p152より引用) 日本発ブランド-顧客のニーズ追従型ゆえにマージンが取れない
 日本市場の「顧客至上主義」は基本的には日本の強みなのだが、・・・イノベーションが必要な局面になると、発想の狭さが露呈し後塵を拝するはめになることが多い。
 このやり方は、いったん発売された新コンセプトの製品の二番煎じを、より高い品質で、より低いコストで提供する場面では威力を発揮する。・・・
 ・・・二番煎じ企業は高いマージンが取れず、それゆえに量をさばいて利益を確保しようとする。そして、その過程で大量、低価格のブランドイメージをつくってしまうのである。

 「顧客重視」は正しい道です。が、その道をたどっても「高級ブランド」の世界では、トップランナーにはなりえないということです。

 ただ、「高級ブランド」といっても、その購入者層は多様です。アメリカ流や日本流のブランド戦略も、ある種の「ブランド支持層」には有効な攻め手でもあるのでしょう。
 そういったターゲット層を対象にした商品/サービスを「高級ブランド」と位置づけるかは“ことばの定義の問題”かもしれませんが・・・。

縦 or 横

 著者が示す日米比較の例をもう少しご紹介します。
 今度は、「ビジネスモデル」に関するものです。

 「ものづくり日本」と言われますが、さて、これからの「ものづくり」はどういう姿になっていくのでしょうか。グローバル化やデジタル化の進展が、ものの「つくりかた」のルール自体を変えつつあるというのが、著者の指摘です。

(p191より引用) 「横型」を推進するアメリカと、「縦型」にこだわる日本
 アメリカは、一般的に言って、自分は付加価値の高いバリューチェーンの上流を押さえ、下流の資本集約的や労働集約的な重たい部分は、外国、特にアジアにアウトソースする傾向が大変強い。・・・アメリカは、バリューチェーンを分解して、付加価値の高い部分に特化し、それをグローバルに横展開する「横型」モデルに強い。

 「横型」は「分業型」志向です。
 「ものづくり」の各段階(プロセス)を切って、それぞれのかたまりを「モジュール化」する、そして、そのモジュール間をつなぐ方式(インタフェース)を規定する。こうすることによって、プロセスごとに「最適」なものを組み合わせてバリューチェーンを作り上げていくのです。

(p192より引用) これに比べ、・・・日本企業は垂直統合の「縦型」である。日本企業はたとえアジアで生産していても、アジア工場は自社工場か協力工場で、基本的には日本企業の垂直統合された一部であることが多い。

 「縦型」は「自社完結型」志向です。
 自己完結しているので、バリューチェーン全体を一元管理することが容易になります。そして、このことにより、顧客に対しても、「一貫した品質保証」を約束することができるのです。

 さて、この「縦型」「横型」、二つのビジネスモデルの優劣についてですが、著者はこうコメントしています。

(p193より引用) 「横型」「縦型」の優位性は事業によって違うが、「デジタル化の推進」「インターフェースの標準化」「アジアとアメリカのつながり」の要素がますます強くなってきている現在、世界のマジョリティは「横型」になりつつあると言えるであろう。

 このようなグローバル潮流に呑み込まれ、従来の「日本方式」が少数派となりつつある中で、今後の日本はどういう道を歩むべきなのでしょうか。

(p196より引用) 日本にとってのグローバリゼーションとは「日本独自のやり方で道を究めるか」、あるいは「妥協して世界の趨勢に合わせ、より大きな土俵での勝負に出るか」のトレードオフの選択なのである。

 トレードオフといっても、すべての商品/サービスにおいて一律にどちらかの道を選択するということではないでしょう。商品/サービスによっては、限られた小規模マーケットで確固たる地位を守り続ける道もあるはずです。

 しかしながら、世界的な潮流への対応も間違いなく必要です。

(p197より引用) 自分から見ると、格下の最大公約数的製品を侮っていると痛い目にも会う。最大公約数的製品をグローバルに打ち出してマーケットシェアを取った企業が、プラットフォーム構築の覇権まで握るとその強さは磐石となるからだ。マイクロソフト社のウィンドウズOSや、アップル社のiPodがそのよい例であろう。彼らの製品を中心として、その周辺に大きなエコシステムができてしまうという具合だ。

 アメリカ礼讃ではありませんが、イノベーイティブなサービス市場においては、依然としてアメリカが力を発揮しているのは認めざるを得ないところです。

 さて、日本は・・・、王道は「自己の強みを活かす」ことです。
 やはり、ハードとしての「ものづくり」(製造業)にフォーカスすべきでしょうか?その場合の方法論は、従来のような「縦型(自社完結型)」を継続するのか、「横型」で重要なモジュール・クリティカルパスを押さえにかかるのか、いずれにしても「グローバル分業」は前提となります。

グローバルマインドからの提言

 本書において、藤井氏は、自身の多彩なビジネス経験にもとづくリアルな課題認識を紹介しています。その中には、いままでもいろいろな人が既に指摘しているものもあれば、藤井氏流のユニークな視点によるものもあります。

 そういう藤井氏の示唆の中から、私が興味をいだいたものをいくつか書き留めておきます。

 まずは、時折日本で見られる「会社は誰のものか」という議論についてです。
 このひとつの答えは、当然「株主のもの」ですが、そう答えても何の意味もないと藤井氏はいいます。問いの立て方に問題があるというのです。

(p181より引用) グローバルなエクイティ資本が日本企業に入ってくる際の問題の定義は、「会社が外国人のものになる」ことではなく、「短期収益性の要求」と「経営陣を変える要求」に対処する準備ができているか、という点にフォーカスすべきなのだ。

 「誰のものか」という「所有者」を確定しても何のアクションにも結びつきません。「外国人株主の支配」が一体どういう問題状況を生じさせるのか、それを明らかにするような問い立てにすべきとの指摘です。

 もうひとつ、日本企業の経営者がよくいう「現場主義」についての藤井氏のコメントです。
 藤井氏は、「現場尊重」と「現場至上主義」との違いという形で説明しています。

(p198より引用) 「現場尊重」は絶対忘れてはならない日本の国際競争力の骨太の源泉だ。・・・
 私が警鐘を鳴らすのは、現場を束ねる上部のガバナンス機構にも、現場がすべてであり、現場にすべての解があり、現場さえちゃんとしておれば大丈夫といった「現場至上主義」の考えが強すぎることである。・・・
 私の考える「現場至上主義」の弊害は、それがレバレッジの効かない考え方であることと、大きな構図を変える際に現在に縛られた考え方に陥りやすい点である。

 「現場重視」という考え方は、往々にして「現場力」を活かす「戦略構築力」への無関心・無理解に繋がりかねません。一朝一夕には育てることができない「現場力」という貴重な強みを、めまぐるしく変化する経営環境の中で活かすには、現在日本企業のマネジメント層の「構想力」があまりにも弱すぎるとの指摘です。

 著者は、日本人の思考様式に根深く存在する「正解信仰」からの脱却を強く求めています。「正解信仰」は「完璧主義」に繋がります。「完璧主義」は失敗を恐れ、また自らが傷つくのに過敏になります。

(p240より引用) 自分は間違っているかもしれないし、自分より優れた意見があるかもしれないと考えられる人は心に余裕があり、自分に本当の自信がある人である。
 このような人は自分の論理を攻撃されても、自分の人格まで攻撃されているとは受け取らない。他人の意見も取り入れて、自分の意見をさらに進化させたいと思っているからである。

 どこかにある「普遍的な正解」を求め、少しでも100点に近づこうをするのではなく、正解が既定されていない一人ひとりの「個別解」を求めて自らチャレンジし続けること・・・、本書を通じて著者が訴えるメッセージです。

 最後に、今回のアメリカ発の金融危機についての著者のコメントです。

(p207より引用) 英米の多くのエリートは「汗水流さずに頭を使って金持ちになれる」ウォール街やシティの金融機関に職を求める。このような強欲なエリートたちが、地道な製造業の生み出す付加価値をないがしろにし、他人の生み出した付加価値をいかに安く買い、他人に高く売りつけるかに莫大な知恵をめぐらせているうちに、気がつくと誰も実体がわからなくなった巨大なバブルの上で火遊びをしていたのが今回の金融危機の本質だ。

 「人の金で自分だけが儲ける」「自分はリスクをとらず、弱者に損の付回しをする」・・・、そういう仕掛け作りのためにのみ頭を使う。今回の現象が、いわゆる現代的「エリート」が目指した「個別解」のゴールの行く末だったとすると、「個別解」の暴走を抑止する「普遍的な思想」が必要だと思うのです。



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