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ソクラテスの弁明・クリトン (プラトン)

無知の知

 哲学に触れたことがない人でも「ソクラテス」という名前はきっと知っているでしょう。
 ソクラテス(Sokrates 前470~前399)は紀元前5世紀のギリシャの哲学者です。
 彼は一冊の書物も残さなかったといいます。彼の思想は、プラトンら彼の弟子の書物(ソクラテスを主人公にした対話編等)を通して伝わっているのです。

 ソクラテスは、人間として「善く生きること」を追求し、「無知の知」を出発点とする問答法による真理探究をおこなったとされています。

 「無知の知」とは「自分が無知であることを自覚していること」で、ソクラテスが受けたデルフォイの神託における「知」とは、この“無知の自覚”のことです。
 ソクラテスは、この神託を受けた後、この「無知の知」による問答でソフィストたちを論破していきます。

(ソクラテスの弁明:p61より引用) あたかも「人間どもよ、おまえたちのうちで誰でも、たとえばソクラテスのように、自分が知恵にかけては本当のところは取るに足らぬものだということを知った者こそいちばんの知者である」とおっしゃっているかのように。だからそのために私は今でもなお神様の命令により、歩き回って、この国の人々のうちにせよ、他国の人々のうちにせよ、誰か知者だと思う人があれば、その人を捜して調べているのである。そして私にそうでないと思われるときには、神様のお手伝いをしながら、知者ではないということを示してやるのである。

 このようにソクラテスは、自らは無知を告白して相手に質問をあびせ、巧みに議論をリードし、最後には相手の知識があやふやなことを公衆の面前で暴露してしまうのです。このためアテネ市民の人気を集めると同時に、彼に反感を持つ者も現れました。これがソクラテス裁判の遠因のひとつにもなりました。

 「無知の知」の問答は、「敬虔とは」というテーマで「エウチュプロン」でも具体的に示されています。そこでのやり取りについては、巻末の解説で丁寧に説明されています。
 本書は、巻末の解説が充実していますから、私のように哲学の基本知識の乏しい読者は、解説を読んでから本文を読むと理解が進むと思います。

悪法もまた法なり

 ソクラテスは紀元前399年、国家の神々を認めず新しい神を導入したとして訴えられました。
 プラトンの「ソクラテスの弁明」は、この裁判でソクラテスが行なった自己弁護の記録です。

 彼の弁明にも関わらず陪審員たちの票決はわずかの差で有罪でした。そして、当時の裁判の慣行では、有罪の判決が下ると、被告が自ら刑量を逆提案し、告発人の提案(死刑)と被告の提案を陪審員が選択することになっていました。この慣行に基づいたソクラテスの皮肉に富んだ提案も陪審員の反発を買いました。結果、陪審員たちは圧倒的多数でソクラテスの死刑を決定し、彼はその決定に従い死に至りました。

 死刑を受け入れたソクラテスのひとつの想いは、有名な “悪法もまた法なり”との考えであり、いまひとつは「善く生きる」との信念だったのだと思います。

 死刑が執行される直前、ソクラテスのもとを訪れた友人クリトンは、彼に脱獄を勧めます。この勧めに対してソクラテスは滔々と諭すようにこれを否定します。これが “悪法もまた法なり”とした論拠の部分でもあります。(ただ、「ソクラテスの弁明」や「クリトン」の日本語訳を見ても「悪法もまた法なり」とのソクラテスの直接的な台詞は見当たりません・・・)
 少々長いのですが、その部分を引用します。

(クリトン:p122より引用) 「それでは、ソクラテス」と法律はおそらく言うだろう。「今君がわれわれにしようと企てることは決して正しいことではないとわれわれが言うなら、それは本当であるかどうか、考えてみてくれ給え。つまりわれわれは君を生み、育てあげ、教育して、われわれの力におよんだすべての立派なものを君にもその他のすべての国民にもわけ与えたのに、それでもアテナイ人のうち一人前の国民になる資格検査をうけて、国における事件やわれわれ法律を見たあとで、もしわれわれに満足しない者があるとすれば、自分の持物を携えて、どこへなりと望むところへ出て行くのを、誰にでも望む者には許すということを、すでに許可を与えた事実によって公告しているのである。そしてもしわれわれと国とに満足しなければ、諸君のうちの誰かが植民地へ出かけて行くのを望むにせよ、またどこか他のところへ行って居留民になるのを望むにせよ、自分の持物をもって彼の望むところへ行くことを、われわれ法律のどれ一つとして妨げもしなければ、禁止もしないのである。しかるにもし諸君のうち誰かがどんなしかたでわれわれが裁判を裁くか、またその他どんなしかたで国を治めるかを見ながら、国にとどまっているとすれば、その人はわれわれが命令することはするということを、事実によってすでにわれわれに同意したのであると主張する・・・」

 この論旨だと、「悪法といえども『法』だから」という短絡的な言い方ではありません。「当該国民であることまた当該国法に服することについて、それを拒否(回避)する手段を認めているにもかかわらずその選択肢を行使していないのだから、国法に服することに同意したものと見做す・・・」という大きな前提がつくようです。

 もうひとつ、仮に脱獄して生き永らえたとしてもソクラテスはそのような生き方を決して望まなかったのです。

(クリトン:p114より引用) 最も尊重しなければならぬのは生きることではなくて、善く生きることだという言論も。



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