見出し画像

城山三郎と久野収の「平和論」 (佐高 信 編集)

 夏は、“戦争” のことを考える季節です。

 本書は、城山三郎氏の「反戦論」久野収氏の「非戦論」という二部構成で、両氏の主張および編集者である佐高信氏自身の主張を開陳したものです。

 城山氏は、自ら志願して海軍に入隊しました。そこで理不尽この上ない軍隊生活を経験したのです。城山氏の「反戦精神」は、まさにその実地の体験に基づく強靭な思想であるわけです。

(p20より引用) 特攻を感傷的に美化し、「強制」なのに「志願」とすりかえる風潮を城山は激しく糾弾する。そして、旗を振った者への嫌悪と、それに振りまわされた自分への悔いを秘めて、「旗」という詩をつくった。・・・
 ・・・軍隊でも会社でも、往々、旗を振る愚かなるトップによって“棄民”がつくられる。城山にとって、戦後の企業戦士はそのまま自らの兵隊体験と重なった。だから、城山が、「組織と人間」を描く、いわゆる経済小説を書くのは必然だったのである。

 本書には、城山三郎氏・久野収氏の論考に加え、佐高氏の持論も併載されています。
 たとえば、安易な規制緩和に走る政界・経済界の動きへの反論です。この動きが、本来最低限必要とされる社会のルール自体を緩めてしまっているとの指摘です。

(p72より引用) JR東日本の松田が、事故が起こる前に本を書いていた。そこには「民営化されて、コストを考えなければならない。コストを下げるために、車両を軽くした。車両の軽量化に成功した。国鉄時代だったら、技術陣がうるさくてそれはできなかっただろう」と書いてある。つまり、技術陣は安全を考えてこれ以上軽くしては危ないと言っていたが、それを突破して軽くしたということだ。風が吹けば軽い車両は倒れるということは素人にだってわかる。こんなに恐ろしいことができるのは規制緩和などではなく、安全緩和であるということだ。

 佐高氏は、小泉・竹中改革が推し進めた新自由主義、すなわち世の中をすべて「赤字・黒字」で測る利益至上主義的価値観には断固反対の立場です。

 さて、本書の後半は、久野収氏の論文と佐高氏との対談が採録されています。
 その中から、私の興味を惹いた部分を以下にご紹介します。

 まずは、「戦争と宗教」に関わる久野氏の整理学です。

(p110より引用) 久野 ・・・戦争には肉体的暴力による殴り合い、殺し合いか、知能による競い合いか、二つしか方法がない。知能による相手の折伏、説得、あるいは共感を得るという方法を世界宗教が考え出した。・・・しかし、世界宗教は、とくに一神教の場合には、ときどき政権や軍権といっしょになって異教徒を弾圧する場合があるわけです。
佐高 ブレインによる戦争から再び、肉体的暴力による戦争に戻ることがあるということですね。

 もうひとつ、「非武装的防衛力は幻想であるか」との寄稿文冒頭の久野氏の一文です。

(p120より引用) 非武装的防衛力などといえば、すぐさま、理想主義、一人よがりの空論、あげくのはては幻想だ、という非難が、現実主義を自称する連中から大きくはねかえってくる。ところがこの場合、現実主義とは、既成事実中心主義、先例主義にすぎず、事実や先例がないというだけの話である。

 「現実主義(そんなのは理想に過ぎない、現実を見ろ)」というステレオタイプ的思考様式は、こと平和論に限らず、社会的事象のいろいろな場面で登場します。
 現実を踏まえること、「三現主義(現場・現物・現実)」は、リアルな課題を取り扱ううえでの基本動作としてはきわめて重要ですが、それは、そのまま「既成事実容認」というわけではないということです。

 「現実」は、“理想”に向かう思考のスタートであって、思考を停止させるゴールではありません。



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?