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映画・風立ちぬ 10年前に書いた感想

御大の新作「君たちはどう生きるか」が公開中であります。
残念ながら、個人的にはポニョやハウルと同系列の「まあ君の中ではそうなんだろう、君がそう思うのなら」という映画で、あんまし乗れなかったですね。エンタメとして観に行くか、芸術として観に行くか、という姿勢によっても賛否は分かれる映画だと思います。

風立ちぬ、がジブリで1、2を争うぐらい好きでして、10年前に鑑賞し、震えた直後の感想文を引っ張り出してきました。

以下は、2度目の鑑賞後の感想文になります。この年、この後、5,6回は映画館に観に行った記憶があります。
パシフィック・リムも同じ年の公開で、パシリム見て、風立ちぬ見て、パシリム見て、、と謎のループをしていた日々。

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2013年7月27日
「風立ちぬ」
火曜日に観て、水曜にマッハで2回目を観に行った。余韻をいろいろ噛み締めているところ。家に持って帰っても味のある映画っていいよね。

映画の矢印、何を描こうとしているか、を感じた後の2回目の鑑賞は、より素晴らしい体験だった。

【以下、少し内容に触れます】

いろんな感動の仕方がある映画だと思う。
私はどこに一番感動したか。
それは狂ったものへの優しい視線、語弊を恐れずに言えば「異常者を美化する姿勢」だろうか。
一度目に鑑賞している途中、イチャンドンの「オアシス」という映画を想いだした。
前科者で社会不適合者の男と脳性麻痺の女とのラブストーリー。これが半ば強姦未遂のような流れで愛が始まるというのだから、本気過ぎる映画ではある。
オアシスの二人には二人だけの愛の理屈があり、言葉があり、二人の世界には二人だけの時間が流れていた。
たとえそれが一般常識とかけ離れていても。狂っていても。
ふたりはラストで離れ離れになるが、さぞ哀しいのだろうとおもいきや、何だかワクワクと喜んでるような所で映画が終わるのですね。
そう、私達の常識で、ひどい、かわいそう、だとか言われる筋合いは無いのです。

無理やり言葉にするなら「人生のどこに価値を感じるかは自由だ」ということだろうか。

私たちは知らないうちに親や友人や社会から「しあわせとは○○だ」「生きる目標は○○だ」と刷り込まれている。そして、それから外れるものを不幸だとか道を見失ってるだとか決めつける。他人にも、自分に対しても。
けれど、多数決の常識的なしあわせに従わないといけないなんて、そんな貧しいことってあるだろうか。

私が異常者、異端者の映画が好きなのは、突き詰めていくと「しあわせの形は人それぞれ」みたいな、何か聞き飽きたようなフレーズに行き着くのだね。
それを本気で描けているか、上っ面だけのアピールなのか。

「風立ちぬ」は本気だったね。
二回観てより明確になった。
二郎は異常者だ。

大量に人が死んでいるはずの大震災の時も、二郎は炎の中涼しげに空を見上げる。
その空に飛行機が飛ぶ。
空に、飛行機に、とりつかれているのだ。
あんな悲惨な出来事を美化している、死んでいる人の描写が無い、ぬるい、などの意見もあるようだが、あの描写は当然で、二郎の見ている世界には苦しみもがき、焼け死ぬ人はいないのである。戦争も同じ。二郎にとっての戦争ははだしのゲンのような世界では全くないのだから、それは描かなくて良いのだ。

人を愛する気持ちも同じ。明らかに人とずれている。
菜穂子に結婚を申し込み、結核ですと聞かされて、何のためらいもなく受け入れる二郎。あのシーンは胸が熱くなるのだけど、それは二郎の愛の深さに、っていうのではなくて、「ああ、こいつ狂ってるな」と。まっすぐに狂ってることが描写されていて本当に胸を打つのですね。
人が生まれ、生きて、死んでいくということに無頓着。そういう二郎だから、キスしようとして「うつるよ」と言われても返事が「きれいだよ」なんですね。うつってもいいよ、じゃない。あなたはきれいだ、なのですね。
いまここにある肉体の造形、形の美しさ、それに興味があるのであって、これまでとかこれからはよく分からないのですね。相手の命を愛でるのではなく、相手の造形を褒める。サバの骨。

また、同じルールにおいて菜穂子の横でタバコを吸うシーン。あれも本当に感動した。やっていいか悪いかって言えばそりゃダメでしょ。そこを突っ込んでるレビューも読んだけど、いいか悪いかと、そういうことじゃない。そしてあの狂い具合が菜穂子にとっては心底ありがたいのですね。自分は結核持ちというある種異常者なわけで、それを大事に大事にされてしまうと、それは差別だったりする。
短い命、その使い道。

二郎の声、二回観て、やっぱりあの声がぴったりだと思った。
違和感があるし感情移入も出来ないが、二郎に感情移入などされては困る映画なのだから。
さらに言えば、あんなの素人の棒読みだから、誰でもいい、ってのはマヌケな意見ですね。庵野秀明は素人じゃない、立派な狂人。宮崎駿はちゃんと根っこから狂ってる人を二郎用に探し当てたんだ。

その声のおかげもあって、ずっと感情の乗り物のない映画である。子供向けではないというのはそういうところ。
あえて乗り物を探すなら、終盤、黒川夫妻が常識と非常識の境目に立ち、乗り物として機能している。真剣に観てきた人の大半はあそこでようやく自分が乗れる感情の器と出会う。
黒川がいかれた二人の美化され切った世界に「現実」というメスをいれる。
でも、何に感動するって、黒川は二郎の狂った世界を「理解できないのに受け入れる」ってトコ。
結婚の直前、菜穂子の体調を思えば山に返すのが常識だろ、と問い詰める黒川に、
二郎「覚悟しています」
黒川「わかった」
いいよね。だらだら説教したりなんかしないの。
奥さんも同じ機能。
菜穂子がもうホントにわがままに山へ帰っていくのだけど、常識か非常識じゃなくて受け止めているのね、菜穂子を、自分の言葉で。あの姿がほんとに泣ける。
加代という常識サイドの化身をあのシーンに投入してるのも素晴らしいよね。

エンディングも見事だ。
常識はさておき、「二郎にとって」の戦争は飛行機が破壊される出来事であり、
地獄かと思いました、1機も帰って来なかった、というのは飛行機に向けてのセリフ。そこに人間が乗っていて、生命が人生が絶たれていることは想像できない。
そんな二郎にとって菜穂子とのは別れは何を意味しよう。
何が「ありがとう、ありがとう」なんだろう。

カプローニは菜穂子を「風」にたとえる。
風はこの映画の中ではあらゆる行為、生きることの原動力として表現されてきた。

風が吹いた。生きねばならない。

菜穂子は風。
空に向けて、空を目指して走ってきた二郎は、誰かのために生きることを知ったのだろうか。
人間が誰かの風となり、エネルギーになることを知ったのだろうか。
あるいは

思考はまだまだ熟成されていく。

いやー、味わい深い映画ですね。
今日のとこはワインでも飲んで――

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