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自分のまま、主人公になろう!~あなたも私もバジュランギおじさん~

こんばんは、淑江はるかです。
突然ですが、私はエヴァンゲリオンに乗りたかった高校生でした。それからアベンジャーズになりたい大人になりました。
でも実際の私は汚れた部屋のベッドでダラダラ飯を貪る人間です。

そんな何にもなれない私だけど、2019年1月19日に、なったんです!

バジュランギおじさんに!

バジュランギおじさんとは、2015年にインドで公開、そして2019年1月18日に日本で公開された映画「バジュランギおじさんと、小さな迷子」の主人公、正直者で心優しいパワンのことです。

トレイラーはこちら

底抜け正直者のインド青年と、声をなくしたパキスタンの迷子。ふたりの旅が、世界に素敵な奇跡を巻き起こす!

このコピーは、公式サイトやパンフレットに書かれているものなのですが、簡単にストーリーを紹介すると、
声を出せない障害を持ったパキスタン人の女の子シャヒーダーが、母に連れられインドまで、声を出せるようにお祈りに行く。けれどその帰りに母とはぐれて、インドに取り残されてしまう。困り果てたシャヒーダーは、町でハヌマーン神(ヒンドゥー教の神の一人で、猿みたいな見た目の神様)へ一心不乱に踊りを捧げている青年パワン(バジュランギおじさん)に出会う。
でいろいろあって、パワンはシャヒーダーをパキスタンにいる両親の元へ送り届けることを決め、旅に出る。はたして無事にシャヒーダーを家に帰し、自らもインドへ帰ることができるのか!? というお話です。

えっ、インドとパキスタンって隣の国じゃないの?陸続きだしちょちょいのチョイっしょ、と思うかもしれないけれど、このインドとパキスタンというのが、この物語の核にある大変重いテーマなのです。
詳しくは、このブログがたいへん分かりやすく、それから映画の魅力たっぷりに紹介してくださってますので、読んでみてください。

インドとパキスタン、長くて暗い争いの歴史があって、そのためにこのお話はこじれていくし、ふたりにはたくさんの困難が壁となって立ちふさがるんです。
でもね、このお話がインド・パキスタンの両国から遠く離れた日本で公開されて、私が「バジュランギおじさんになった!」なんてトチ狂ったnoteを勢いで書いているのは、そこにあるメッセージが世界を超えて不変であり、もしかしたら今ここに必要なものなんじゃないかと思ったからです。

どうか一人でも多くの人にこの映画を見てほしいし、バジュランギおじさんになってほしいから、ネタバレはなしでそのメッセージについて書きます。

憎しみの鎖を断ち切って、愛の絆で心と心を結ぼうよ

すごく普遍的だし、言ってしまえば綺麗ごとのように思うかもしれない。
でも、実はこれは現実的な問題として、最近私は感じるところがありました。

みんなが自分の傷や、痛みや、トラウマを披露して、そういうドラスティックな話というのはツイッターとかのSNSでよくバズるじゃないですか。幸せだった、嬉しかった、愛おしかったという話よりもずっとずっと注目されるし、拡散されていく。
こんな酷い経験をした、こんなふうに傷ついた。こんなありえない現場に遭遇した、とかね。で、そうだそうだ!って賛同する人がいっぱいいて、だんだんその問答が世の中のスタンダードになっていく。
双方の考えや実情を知ることもないままに、先に声を上げたほうが正しいと信じられる、ということへの歪さを感じてしまう事が、やっぱり多い気がします。(で、それに同じ傷で報いるということもままあります)

なぜなら、人は痛みのほうが強い反応を示すから。痛みはわかりやすく大きな感情だから。それから傷への同情は、ごく簡単に人の気を引くことができるから。こんなものを作ったよ、考えているよ、好きなんだよという話より、大切な人を・ものを失った、とかいう話のほうが、いとも簡単に注目を浴びたり、記憶に残らせることができると思う。じっさい母親を10歳のときに亡くしていたりとかいうエピソードを持つ人間として、経験則で感じる部分もありました。

作中に、こんなセリフがあります。

「憎しみ」には飛びつくのに、「愛」には……。

苦しい過去の感情は、バリケードを作るんです。古傷を盾にして、ともすれば人質みたいにして、誰かや何かを排除したりするときにもってこいの大義名分になる。
作中の、インドとパキスタンの関係はまさにそれを象徴していました。

ほんの少し歩み寄れば、お互いの手を繋いで生きていける距離にいるけれど、過去の傷は「それをしなくていい理由」を与えるのです。
そうして、隣国に住む人たちは、柔らかくて大切な絆を結ぶかわりに、痛みで作り上げたバリケードで「何か」を守っていたのです。

「何か」と言ったのは、じっさいに守っているものなんて、無かったように思ったから。大事なものを守っているように思えて、一歩を踏み出して自分と違う他人と心を繋いでみると、「あぁ、私が壁をつくって守っていたものは、なんだったのだろう」というくらい、名前も実体もないものだったのです。映画の本編から考えると、憎しみの出がらしのようなものでしょうか。

同作のパンフレットで、主演を務めたサルマン・カーンは「この映画は、ヒンドゥー教とイスラム教、インドとパキスタンの対立を終わらせる可能性を秘めている」とコメントしています。

私も心からそれを願う一人になりましたし、きっとこの映画を見た人の多くがそう望むでしょう。望むだろうと信じたい、という気持ちです。
それと同時に、これを遠い海の向こうの国のことだ、つくられた映画の物語だ、と思うのではなく、ふとした時に思い出してほしいのです。

自分の隣で過ごす人が、遠く離れた家族や友人が、街ですれ違った誰かが、まだ出会ったことのない誰かだって、「愛」と「祝福」をもって生まれてきたということを。世界で生きる人を一人残らず愛せよ、なんてことが言いたいんじゃなくて、きっと争い合うために生まれた人ではないって事を、そっと思い出してほしいなぁということです。そしてわたしも、そうありたい、と思うことができました。

同じくサルマン・カーンはこうも言っています。
「(主人公パワンは)とても単純で、純粋な男でありながら、とても強い男であり、全ての人に敬意と愛を抱き嘘をつかず、何も悪いことをしない男」と、そして彼を《黄金の心を持った男》であるとしたうえで、「この映画を観て、彼のような人間になってほしい」と。

そしてそれを見た私は、こう思ったのです。

それなら、なれるじゃん……!!!

だって彼は、ネルフに選ばれた子供でもなければ、蜘蛛に噛まれたわけでも、宇宙飛行士でもないし、念能力もチャクラもスタンドも持ってないけど、ヒーローです。なんなら学校の試験を10回も落第し、いつまでたっても卒業できずにいた男だよ!?
私だって大学は留年するわ部屋は汚いわ足は臭いわな女だけど、人を大事に大事に生きようってことなら、不可能ではないじゃない!?

この映画を観たらきっとわかると思うのですが、バジュランギおじさんは、紛れもなくヒーローです。どう考えてもヒーローでした。

そんな彼が守っていたことは「善い人であろう」とし続けたことだけです。でも、それをほんとうにほんとうに、し続けました。
なんでもないただの男が、世界に優しくあろうと思い続けて、小さなところからやがて大きな奇跡を生むのです。

だからね、なにもない私が、まず先陣を切って誓いたい。
バジュランギおじさんになることを!!!

そして私に続くとか、そんなことを思わなくていいんです。ただ2時間45分だけ、ほんの2時間45分だけ、この映画を観てください。
そして二人の旅を見届けた後、
赤い目をして映画館を出る、あたらしいバジュランギおじさんの姿が、私には見える……!

きっとそんなあなたと国境を越えて、海を越えて、砂漠を越えて、それからたくさんの傷や痛みを越えて、ひとつの愛を持ち寄って出会えることを願って、今回のnoteを終わりたいと思います。

アッラーのご加護がありますように。
ラーマ神万歳!


公式サイトはこちら、お近くの劇場をチェック!!!


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