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instant fiction「花火のない夏」


ピッピッと携帯をタップする音が聞こえる。

「なあ、今年って夏っぽくないよな」と友達は言った。"ただ飲みたい" そんな気分の時に、集まる居酒屋で。

お店の中はきちんと片付けられていて、メニューは手書きで書かれている。ひとわき目立つテレビの画面には開幕が危ぶまれていた、プロ野球のナイターが映されていた。

「セミの鳴き声が聞こえます。今年も夏が来ましたね!」と顔立ちがはっきりしていて長い髪の毛をまとめているリポーターが言う。まるで、42.195キロ(フルマラソン)のスタートの啖呵を切るように。


お店の肩引き戸が開かれていて、

蚊取り線香の匂いが店内に伝ってくる。



「夏っぽくはないけど、こんな風に夏を送れることに安堵しているかも」と僕は友達に向かって言うと、

「ああ、なんとなくわかんないけどそれもそうだな」と友達は胡瓜を食べながら言った。友達は良い意味でも悪い意味でも "鈍感" なのだ。

人生という点を飾る花火があったり、神輿を担いで賑わう祭りがあったり、縋るように聴く好きなアーティストのライブがある。

そんな夏を迎えるたび、どこかきて欲しくない。みんなが楽しそうにしているのが、"楽しそう" にしていなくちゃいけなかった夏が苦しかったんだ。


今年は、"夏"というものさしを使わなくても済むと思うと安心する。半分開けてあるお店の扉から、ミンミンミンとセミの鳴き声が聞こえた。



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