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『猟銃』(五所平之助、1961年)、『愛のまなざしを』(万田邦敏、2021年)

奇妙な気持ちで見た。

はじめてその名を意識したのは、ある論文を読んだときだったと思う。ちょうど日本のメロドラマ映画にかんする研究をしていた自分は、英語圏のメロドラマ映画研究の蓄積をふんだんに活かしたそれを読み、ここまでできるのかと大いに啓発を受けた。実際この感銘を修論に反映できたかどうかは心許ないものの、同時代に活躍したダグラス・サークのファミリー・メロドラマと五所平之助の『猟銃』を並置する氏の文章は今もなお鮮烈な印象を残す。誤解のないようにいいそえておくとすれば、私はこの論がアクロバティックだとかそれゆえに刺戟的なのだとか訴えたいのではない。日本映画におけるメロドラマとは何かという命題をたった1本の映画テクストから導き、形式面でも内容面でも豊かな果実を実らせた点に胸を打たれるのだ。

にもかかわらず、告白すれば映画の鑑賞中は極めて退屈していた。どうにも通俗的な恋愛映画としか思えず、佐分利信と岡田茉莉子、佐田啓二と山本富士子の二組が烏合の衆に見えて仕方なかったのである。佐田が隠し子騒動の責任からフェードアウトした結果、佐分利が岡田の従姉妹である山本に言い寄るだけといえば物語はそれだけである。おまけに不治の病、生さぬ仲と来ればこちらの食指も伸びないではないか。あまりに紋切型で誰にも関心が持てない。

さすがに擁護できないと思われたところに、しかし、驚くべき論理が出来する。山本が遺書で明かすには、自分が本当に執着していたのは実は佐分利ではなく佐田なのだ、と。芥川也寸志のおどろおどろしい音楽も相まって、映画は急激にトーンを変える。通俗恋愛映画が異端に変貌していく。これまで愛していた人など、これっぽっちも愛していなかったのだという驚くべき吐露を、亡き山本の声は淡々と告げてしまう。
待ってくれ。ならばあなたたちに2時間近く付き合ってきた私は、一体何を見ていたというのか!

愛しているのは誰なのか。愛していたのは誰なのか。
仮に『猟銃』と似た味わいのフィルムを挙げよといわれれば即座に万田邦敏の『接吻』(2008年)を挙げるが、両者の違いはその告白をどう撮るかにある。
無論、前者は声として、後者はアクションとして。

その万田が、数年振りに新作『愛のまなざしを』を撮った。こちらも奇妙な四角関係から成り立つ物語で、さながら『怪異談 生きてゐる小平次』(中川信夫、1982年)のように低予算を逆手に取ったスタティックな映画となっている。

とはいえ、こちらも正直にいえば退屈したのが事実である。これまで万田映画で輝いてきた仲村トオルが遂に主演を果たすとなればこちらも武装解除せざるを得ないが、見ていくうちに鎧を着る羽目となるだろう。
恐らく躓きの原因はプロデューサーとヒロインを兼ねた杉野希妃にある。思えばこのヒロインの強かさは、良くも悪くも彼女本人にそっくりではないか。無論、こうした指摘などすでに織り込み済みで製作したに違いなかろう。だが、それにしても。

人の感情という論理など太刀打ちできぬ領野にあえてその一本刀で乗り込むこと。その難しさを痛感する。

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