見出し画像

掌編 残花 高北謙一郎

 

こんにちは。週に一度の掌編投稿です。さくらの季節ですね。関東でもすでに満開を迎えています。今日はそんな、さくらにまつわる物語。ちょっと伝奇モノっぽい雰囲気。いつものように投げ銭設定です。お楽しみいただければ幸いです。

追伸・この作品の表紙となるべく写真は、ちょうど先日わたしが撮影してきたものです。今シーズンはホンキでさくらを撮影しよう。ということで、日々あたりを徘徊しております。その他の写真も、よろしければご覧ください。https://www.takakitablog.work/entry/2019/03/30/175127




【残花】                       高北謙一郎


穏やかな、春の午後だった。惰眠をむさぼることにも飽きてしまった私は、のどかな陽射しに誘われるように、縁側から庭に降り立った。古びた民家を借り受け、この地に暮らすようになって半年。ちっぽけではあるが、こうして気ままに土を踏みしめることのできる庭があるという環境は、やはりありがたいものであった。

近所の野良猫が、ぶらりとやってきた。でっぷりと太った雄の三毛だ。普段は通りの向かいにある公園でうたた寝をしているのだが、食事時になると決まって我が家へと顔を出す。道をひとつ渡るだけで三度の食事にありつけるなんて、あまりに恵まれ過ぎているのではないか、とは思うのだが、決してこちらに媚びを売るわけでもなく堂々たる態度で庭先に姿を見せられると、つい足早に食事の用意をしてしまう。

だいたい、猫は日に三度も食事を摂る必要があるものだろうか? 

まぁもっとも、独り身となった今の私には、共に卓を囲むことのできる相手がいることは、ありがたくもあったのだが。

とはいえ、今はまだ食事時ではない。昼の握り飯は充分だったはずだ。それほど腹を空かせているわけでもないだろうに。そんなことを考えていると、猫はひと鳴き、短く声をあげた。そしてこちらをいわくありげに一瞥すると、再び庭から外に出て行ってしまった。

どうしたというのだろう? 明らかに、私を呼びにきたとしか思えない。わざわざ私を呼びにくる理由とはいったい何だろうか? ひとりその場に取り残された私は、小さく肩を竦めた。ちょうど散歩にでも行こうかと考えていたところだ。いい道連れができたというものだ。ついでに晩飯の食材でも買ってこよう。私は猫のあとに続いた。

下町の風情を残す路地。民家の建ち並ぶ坂の多い町だ。数メートル前を歩く猫は、時どきこちらを振り返ると、先ほどと同じように短く鳴き声をあげた。いつも買い物をする商店街は、もうずいぶんと前に通り過ぎた。小さな川に架かる橋を越えたところで、私にはもう、まるで土地勘のない場所となった。

よく判らないままに、だいぶ遠くまでやってきてしまった。快晴だった空はうすい雲に覆われていた。いつしか吹き始めた風が、まだ開店前の居酒屋のちょうちんを揺らした。肌寒さとともに、不吉な胸騒ぎを覚えた。

この感覚は私にとって馴染み深いものであると同時に、あまり喜ばしい予兆とは言いがたいものであった。異界への扉が開かれた――そんな確信だ。

どういうわけか、子どものころよりこの世に暮らす者たちとは違う、別の領域に棲む者たちを見ることがあった。初めて死人に出逢った時は、ただただ恐ろしくてその場に立ち尽くしているよりなかった。痩せ細って背中の丸まったそのおとこは、顔の半分が失われていた。当時まだ小学生だった私の周りをぐるぐると歩きながら、残された片方の目を虚ろに彷徨わせていた。結局その時は、夜になっても家に戻らない私を探しにきた母親によって助けられた。もっとも、母にはそのおとこの姿を見ることはできなかったのだが。

その後も異形の者たちとの遭遇は繰り返された。どれもあまり思い返したくもない記憶だ。そもそも、なぜ私なのだろう? 繰り返される疑問だ。なぜこの世に暮らす者ではない彼らは、私の前に姿を現すのだろう? なぜ、私を呼び寄せるのだろう? 私には、彼らを成仏させてやることのできる法力などない。彼らの苦悩を和らげることもできない。彼らにとっては、私など何の役にも立たないであろうに。

けれど本当のことをいえば、私にはその理由が判っている。彼らは私に助けを求めているのではない。私を取り込もうとしているのだ。彼らの仲間として。あるいは下僕として。簡単にいえば、彼らにとって私のような人間は与しやすいものと、そう思われているのだろう。

正直、私が今日まで生きてこられたのは、妻のおかげに他ならなかった。彼女の存在が、私をこの世に繋ぎ止めていた。彼女がいたからこそ、この世には留まる価値があった。

しかし、その彼女はもうこの世にはいない……。

猫が、短く鳴いた。古い神社に辿り着いた。雑木林に隔てられたそこは、ひっそりと静まり返っていた。目の前には、朱色の鳥居が幾重にも連なっている。それはまさに、この世とは別の領域へと続くトンネルのようだ。

まるで自らの役目は終えたとでも言うように、猫は私を置いてその場を立ち去った。それを横目に見やりながら、私は大きく溜め息を吐いた。猫と一緒に引き返すこともできないではなかったが、引き返すという選択肢は、ないも同然だった。たとえこの場を逃げ去ったとしても、遠からず再び呼び戻されるという、そんな予感があった。そう、まぎれもなくこの先に待つ者は、私を呼び寄せているのだから。

意を決して、鳥居を潜り抜けた。花曇りの空が現れた。拝殿へと続く参道の脇に、枝垂桜の古木があった。すでに盛花のころは過ぎたであろうか、細い枝先には、それでも淡い花びらが揺らめいていた。そしてその花の向こう側に、うつくしい、鬼がいた。


透けるほどにうすい平織りの布地を幾重にも重ねた、純白の打掛け。長い裳裾を引いて、おんなはゆらりと揺蕩う。白い空に溶けてしまうかのようなその果敢なげな姿を目にした途端、私はその場から一歩も動けなくなってしまった。

しかし、どれほどうつくしくとも、このおんなはやはり鬼と呼ぶよりなかった。邪悪な外道が姿を偽っているわけではない。にわかに恐ろしい形相に変じて襲い掛かってくることもないだろう。それでも隠しきれないほどの死の気配が、おんなを取り巻いている。そしてそれは、これまで幾度となく私の前に現れた者たちと、同じものであった。

それに、なによりこのおんなは、私にとって……

桜の下で、おんなは静やかに舞を舞った。鬼が歌舞音曲に優れた力を発揮するのも、おそらくは私のような人間を魅了するための手段ではなかろうか。風に散りゆく花びらのように、緩やかに流れる時のように、その舞は静寂の中で揺れた。

知らず、私の足はじりじりとそちらへ近づいていった。おんなのもとへ、近づいていった。抗いなど霧散していた。恐れなど何処にもなかった。ただ、おんなの傍に近づきたいという衝動が私を動かしていた。早く辿り着きたい――その焦燥が。

不意に、背後より鋭い風圧が耳もとを過った。反射的に身を竦ませる。短く息を呑む。そしておんなの胸に、一本の矢が突き立てられていることに気がついた。純白の打掛けが、徐々に紅い鮮血に染まっていく。咄嗟に振り返る。参道の先に立つ拝殿の入り口に、巨大な弓を構えたおとこが、険しい表情のままに深く息を吐き出していた。

宮司。四十代も半ばといったところか、がっしりとした身体つきのそのおとこは、尚もただ一点を見据えている。すぐにでも、二の矢、三の矢をつぐ気配だ。

再び、視線を戻す。おんなの胸には、やはり一本の矢が突き刺さったままだ。先ほどまでの流麗な動きはもう、そこになかった。まるで桜の幹に打ちつけられたかのように、微動だにしない。

ぐらりと、天地が傾いだ。視界が反転した。私はよろめきながら膝をついた。憑きものが落ちた。それが判った。けれどそれは、安堵よりも失望に満ちたものでしかなかった。呆然と、おんなの姿を見やる。おんなは徐々に気配をうすめ、春の空気に溶けていった。

私は声もなく泣いた。ぼろぼろと零れ落ちる涙を止めることができなかった。向こう側に、おんなのもとに、行きたかった。しかしその扉はもう、完全に閉ざされてしまった。

大きな手のひらが、私の肩を叩いた。宮司だった。笑みひとつ浮かべることなく、彼は私を見据えると、微かに頷いて見せた。大丈夫ですか? 桜の季節はひとを惑わすものです。あのおんなは魔性の者、邪気を孕んでいないだけに、かえって危なかった。

判っていた。そんなことは私にも判っていた。それでも、私は……

短い猫の鳴き声が聞こえた。宮司の足もとから、のそのそと太った猫が現れた。よく見知った近所の野良猫だった、宮司が初めて笑みを浮かべた。この猫が危険を知らせてくれたのです。あと少し遅かったら間に合いませんでした。彼はそう言いながら、一本の矢を私に差し出した。先ほどおんなを射たものだ。これを持って行きなさい。護符のようなものです。もう二度と、異界の者があなたの前に現れることはないでしょう。

黙って、それを受け取った。亡き妻を思いながら。

猫が私の足もとを擦り抜けていく。そして、まるで晩飯に遅れると言わんばかりに、すたすたとその場を離れていった。私は、そのあとに続いた。

                                                        

                           【了】

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?