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凄惨な光景を撮影、拡散してしまう、その前に

最近とりわけ、凄惨な動画や写真がSNSにアップされ、拡散されるのを目にする機会が続いてしまった。誰かが殺害される動画、誰かが飛び降りる動画、皆、撮影者自身が知らない「誰か」にも関わらず、それはアップした人間の意図を大きく超えて、独り歩きしてしまっていた。

その影響を挙げれば、きりがない。スマホを片手に撮影する人々によって救援活動が妨げられるかもしれない、災害の現場などであれば、撮影に夢中になるあまり、撮影者自身に危険が及ぶことだってあるはずだ。

SNSで流れてくる動画や写真は、本人の意思に関わりなく”目に入って”しまうことがある。だからこそ生きづらさを抱えた方々が、ふいに見てしまった動画でさらに追い詰められることもあるかもしれない。その動画が拡散され続けることによって、ご遺族を何度となく傷つけていくこともあるはずだ。

発信する際、どんなに気を配った”つもり”でいても、人を傷つけてしまうことがある。東日本大震災直後、岩手県陸前高田市の松原でたった一本残った松を、私は「希望」として報じた。ところがこの街で被災し、妻を亡くした義理の父は、「津波の威力の象徴にしか見えない」とこの写真で深く傷ついたことがった。

もちろん、警察をはじめとした権力側の違法行為、残虐な行いの証拠を残すという役割を、こうした動画が果たしてきた側面もある。(だからこその法規制の難しさなどは下記の記事に詳しい。)

ここで懸念したいのは、日常の延長線上で、こうした画像や動画を安易に扱ってしまうことだ。

撮影することも、発信することも、本来はとても繊細な行為で、もっといえばカメラが凶器になって、人の心をえぐることさえあるからだ。

こうして厳しい側面ばかり語ってきたものの、動画も写真も悲しみや苦しみだけを伝えるために生み出されたものではない。だからこそ何かを発するときの、力の傾け方を変えることはできるのではないだろうか。

2015年2月1日、早朝のことだった。過激派勢力「イスラム国」に拘束されていた後藤健二さんが殺害されたとされる動画が流された。私はその日、朝8時からTBS系「サンデーモーニング」にパネリストとして出演する予定だった。けれどもどんな言葉をここで紡ぐべきなのか、頭の中が真っ白になりかけていた。

この日、同じくパネリストとして出演されていたのが、映画監督の是枝裕和さんだった。是枝さんが静かにこうおっしゃったのを覚えている。

「こうして映像は、残酷なものを伝えてしまうことがある。けれども本来、人をつなぐためのもののはずだ」。

はっとした。私が続けてきたのは動画ではなく写真ではあるものの、同じことが言えるのではないかと思えた瞬間だった。

確かにこれまで、災害や紛争によって傷ついた、厳しい現場を何度となく目の当たりにし、ファインダー越しにそうした光景を見つめなければならないこともあった。けれども同時に、人と出会う喜びや、子どもたちの成長の実感を与えてくれたのも、写真だった。

そんな写真を見た人たちが「私も行動したい」と、実際に東北などに出向いたと報告をくれるときに、「この仕事をしていてよかった」と思える。

せっかく得た、発信のための手段。それが、人と人とが手を携えることができる瞬間や、優しい場所を増やすためのものになるよう、力を注いでいきたいと思う。

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