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【エッセイ】インプット

インプットとアウトプットは表裏一体である**

初回の記事でアウトプットについて書いたのに、今度はインプットの話かよと訝しがる読者がいるかもしれませんが、アウトプットする(出す)以上はインプットする(入れる)必要もあるということで、両者は表裏一体だと私は考えています。
そして、インプットとアウトプットの両者を橋渡しする「産みの苦しみ」ともいうべき混沌とした状態もまた、重要なものだと主張するつもりです。

さて、以上を明確にするに当たって、今回は「読書」を例にとって考察します。
私個人の見解として、「読書」は「量」より「質」が重要だと思っています。もちろん、名著や名文に数多く触れることに越したことはないのですが、よく読書する人に対してなされる「年間何冊読んでいるか」という問いは、あまり意味がないと私は考えます。

読書の「質」は「読書体験」にある**

つまるところ、読書が読者の血肉になり得たか、これこそ読書の「質」を測る指標と考えています。つまり、「読書体験」という言葉があるように、読書をすることで書物に書いてあることを、あたかも自らが直接体験して思考したかのように感じ取り、自分の中に取り込むことが「質」を高めることに繋がるのです。
ここで更に重要なことは、必ずしも、読んだ直後に書物の内容、あるいは著者が表現・主張したかったことを理解できなくてもよいということです。
読んでも理解できなかったにもかかわらず、いつまでも自分の中に引っかかり、頭から離れずにいられない・・・という経験をした方もいるでしょう。それは、あなたの「読書体験」が、あなたの中で熟成しつつある過程にほかならないのです。
そして、ふとしたキッカケで、そのモヤモヤの正体を知る瞬間が訪れるでしょう。それはさしずめ「アハ体験」のようなものです。それは身体中に電撃が走るような、衝撃的な瞬間かもしれません。じんわりと心に沁みわたり、一筋の涙が頬をつたうような瞬間かもしれません。
次に、あなたはその体験を人に話さずにいられなくなるかもしれません。もしくは、何かに書き留めて、理解したことを実行したくなるかもしれません。それこそ、あなたが「インプット」の後の「産みの苦しみ」で煩悶した末に「アウトプット」したことなのです。

『こころ』について**

1.「先生」と「K」の散歩コース

私は高校生の頃、夏目漱石が記した『こころ』を読みました。読んだきっかけは、国語の授業の課題として同書が指定されたからです。
『こころ』の巧みな描写に高校生の自分は驚き、夢中に読んだ記憶があります。しかし、描かれている人物の心情は、高校生時代の私には難解で理解に苦しむものでした。
冒頭の語り手である「私」と「先生」の禅問答のようなやりとり、「先生」と「K」との間にあったこと、「K」の自殺、その後、「先生」が苦悩の末に選択したこと・・・これらは私の心に10代のころからずっと引っかかり、今でも私の心を捉えて離しません。
当時の国語の先生は、『こころ』に関する直接的な「答え」を私達に教えることはしませんでした。その代わり、作中でしばしば「先生」や「K」が散歩するルートを地図上にトレースしてみると良い、あることに気がつくはずだとおっしゃいました。

早速、私は先生のアドバイスを実行してみました。国語の教科書(多分、副読本の資料集だったと思います。)に地図が載っていたので、赤鉛筆でルートを辿ってみました。
当時の教科書はすでに手許にないので、Googleマップでトレースしてみた地図を以下に貼り付けます。特にポイントになるのは以下の3つの散歩コースです(番号は作中の節番号)。
(1)二十七;「先生」と「K」の最初の散歩道(伝通院から植物園を経て富坂下まで至るコース)
(2)四十;「先生」と「K」の2回目の散歩道(東京大学構内から不忍池まで至るコース)
(3)四十六;「先生」単独の散歩道(3区に跨る「いびつな円を描いた」コース)

念のため説明しますと、(1)は下宿生活間もない時に「先生」と「K」が連れ立って歩いたコース、(2)は「先生」が「K」に対して決定的な台詞「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」を言い放ったコース、(3)は「先生」が「お嬢さん」への想いを「奥さん」に告白した後に歩いたコースとなっており、作中の登場順序もこの番号のとおりです。
実際に地図にトレースしてみて驚きました。
見事に(1)と(3)のコースが対照的になっており、正に作中の構造を体現しているようです。そして、(2)のコースが2つのコースの中間あたりに横たわっており、「先生」と「K」との関係を決定的なものにした有名な台詞を放つシーンに対応している様に見えます。

高校生当時の私は夏目漱石のこうした構造的な表現手腕に感嘆しました。しかし、当時はこの事実から更に深く自分の理解を掘り下げることができませんでした。
せいぜい、「先生」と「K」との「お嬢さん」を巡る三角関係のもつれ話程度にしか理解できませんでした。
しかし、本当にそれが『こころ』の本質なのか、こんなにも長年人々の心を捉えて離さない名作のテーマなのか。トレースしてみた地図とともに、違和感が私の胸中にしつこく居座り続けました。

2.「先生」が手紙に託した「こころ」

そして、このブログを執筆するにあたって、高校生の時に試みた地図のトレースをふと思い出したので、今一度『こころ』を読み返してみました。
改めて読んでみると、「先生」と「K」のみならず、作品冒頭の「私」と「先生」、「私」と実家の両親や兄との関係、「先生」と叔父との関係にも、夏目漱石が本作に込めた構造が、堅牢な建築物の様に入り組んでいることに気が付きました。
その構造とはすなわち、明治から大正に至るまでの社会の大きな変化、古来からの価値観と新しい価値観との鬩ぎ合いです。
細かい解説は割愛しますが、夏目漱石が生きた時代は正に激動の時代で、江戸時代の封建的な価値観が文字通り崩壊し、明治を経て、近代国家としての日本がひとつの到達点に至った時代でした。
「K」や「私」の両親、「先生」の叔父は旧来の価値観を体現する人物として描かれています。しかし、「K」は純粋に出会った女性に恋心を抱くという、(自由恋愛を是としていなかった当時としては)新しい価値観が自分の中に芽生えていることに驚き、苦悩したのです。「先生」も同様でしたが、求道者である「K」程の堅物ではないので、なんとか折り合いをつけて恋に邁進し、新しい価値観を受け入れたかに見えます。
しかし、その結果招いてしまった哀しい結末が、長年「先生」を苦しめ続け、ついに「明治天皇の崩御」そして「乃木大将の殉死」という象徴的な出来事とともに、自分も古来の価値観、古い時代に殉じることを選択したのです。
そして、「先生」は「私」に手紙を託します。「私」は若く、新しい価値観に生きている人なので、「先生」は手紙の中でも、「私」はきっと理解に苦しむだろうと述べています。
しかし、「先生」は新しい時代に生きる「私」に手紙を託し、確かに自分が見て、感じ、考えたこと、すなわち自分の「こころ」を、ありのまま伝えて「あなたの胸に新しい命が宿る」ことを望んだのです。

そんな「先生」の想い(つまり、夏目漱石の想い)に遅まきながら気づき、私はしみじみと考えました。
平成から令和へ時代が移り変わる今、私は「先生」のように新しい時代の人に対し、自分の「こころ」を伝え、彼らの胸に新しい命を宿すことができるだろうか、と。

最後に

如何だったでしょうか。いささか唐突だったかもしれませんが、以上が、私が辿った「インプット」から、長い「産みの苦しみ」を経た末の「アウトプット」の具体例でした。
多かれ少なかれ、大なり小なり、何事にも同じようなサイクルが繰り返されるものと考えます。
きっと皆さんも、必ずしも自覚的ではないとしても、同じような経験をしているはずです。

どんなに頭がきれ、天才的に見える人でも、すんなりとアウトプットをしているようで、その内面ではインプットとアウトプットの端境たる「産みの苦しみ」を味わっているのだと思います。
皆さんが、このブログを読んでいる時、あるいは次に「読書」をしているとき、その萌芽を見出すことができれば幸いです。

おまけ「僕の考えた書斎BAR」


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