「現象学入門」(竹田青嗣)に基づいて〜「知らないものは存在しないのと同じ」の現象学的な意味 その3

このシリーズの最終回です(「その1」、「その2」へのリンクはこのページ末尾を参照)。

この本のエッセンスは「その2」までで言えたと思う。第3章以降は、方法(3章)、「還元」を実際にやってみたいくつかの例(4章)、フッサール以降に現象学を展開した、または影響を受けた哲学者の話(5章)が続く。

さてそのエッセンスは二つあって、一つ目は、フッサールは「主観か客観か」ではなく、全く新しい問いの立て方をしたこと、つまり主観の内部で、確信が生じる条件は何か?と問いを立てたことだ。

二つ目は、その確信が生じる条件とは、意識の自由にならないオリジナルな直観である、ということだった。

ここからいよいよ、「知らないものは存在しないのと同じ」を説明するために必要な道具立てのうち、まだ書いていないことを若干補っていく。

世界像の三つのランク(『第2章 現象学的「還元」について』より)

フッサールは、「世界」は次のように「三つの領域」(第2章 p60)に分けられると言う。

①日常世界:目に見え手で触れられる具体的経験の世界
②伝聞・情報の世界:経験可能な世界
③神話=フィクションの世界:経験不可能で憶見だけからなる世界=非日常的世界
(第2章 p61、図1)

これは、「確信」の仕方によって分類されている。

①は、『そこにあるものを目で見、手で触れられる』(p61)世界だ。直接自分で経験することができ、疑うことができない。

②「伝聞・情報の世界』は、『他人の伝聞、情報によってだけ、それが存在することを知っている(信じている)世界』(p61)だ。
『たとえば田舎の人間にとっての都市であり、日本人にとってのヨーロッパやアメリカであり、また都会人にとっての"辺境"の世界である。さらにまた、生活人にとってのテレビに映し出されるさまざまな世界、商売人にとっての芸人の世界、科学者にとっての政治家の世界等々である。』(p61)
直接経験したことがなく、またその全体を経験することもできないが、経験できる可能性がある、という世界だ。これは常に①に転化する可能性があり、①についで確信の度合いは高い。

最後の③「神話=フィクションの世界」は、経験できない世界である。『たとえば、宇宙(世界)の果てはどうなっているか、時間の起点はあるか、世界の存在の意味はなにか、神は存在するのか、といった事柄の世界がこれにあたる。(中略)誰かが経験によって確かめたことではなく、ただ理性が具体的な経験からの推論や憶測によって導き出したフィクション=物語(=独断論)としか言えない。』(p62)

ただ、この説明でちょっと困ることがある。全然瑣末なことだが、②の範囲がちょっとはっきりしない。

「伝聞・情報によってすらまだ知らないが、知ることはあり得る世界」は②に含むとして良いのだろうか?たとえば、「まだ読んだことのない旅行ガイドブック」に書いてある情報等である。これは経験によって確かめることができるから、③には含まれない。かといって、まだ読んだこともなく全然知らないのだから、②だとも言いにくい。

世界像が、「ある特定の人にとっての世界」ということなら、「まだ読んだことがない旅行ガイドブック」のような情報は、②にも含まれないと言えそうだ。

現象学的な「〜とは何か」という問いの意味(『第2章 現象学的「還元」について』より)

さてこんな七面倒くさいことを考えて、何かご利益があるかというと、ある。ものの見方が変わるだろう。

「客観的な実在」というものを確かめることはできないわけだから、「〜とは何か」という問いの意味が全然違ってくる。少し難しいけれども、かなり面白いので、これを端的に表現した箇所を引用しておく。

『たとえば「世界とは何か」という問いは、客観主義的な答え方とは全く違った仕方で答えられることになる。それは、ある概念(言葉)を外在的な客観に対応するものとして捉えるのではなく、ただ<主観>のうちの内在的な意味系列として捉えるという方法をとることになる。』
(第2章 p63)

こういう観点では、「世界」とは、「<意識>にとって、実在、価値、時間を確信するための領域として現われ、唯一同一の存在として、また自分がその中にいるという確信を絶えず与える対象」(p64の表現をさらにわかりやすくした)ということになる。

「知らないものは存在しないのと同じ」とはどういうことか?

ようやく、これを説明する道具立てがそろった。

前述の世界像の3領域に当てはめると、ある人が「知らないもの」は、まず、「その人にとっての」世界①(日常世界)には含まれない。つまり、直接経験したものではない。(「ある人」のことは「彼」と呼ぶことにしよう。)

(前々節で述べたような、言葉の定義の上での問題は残るが、「世界」というのが「彼にとっての世界」ということならば、)彼が「知らないもの」は、彼の世界②(伝聞・情報の世界)にも、世界③(神話=フィクションの世界)にも含まれない。しかし、いったん知りさえすれば、常に②か③に含まれる可能性がある。

さてここで、ある物事の「存在」が、現象学ではどういうことだったか、思い出してみる。客観的な実在というものは証明することができない。人間が何かが「ある」と確信するのは、自分の意識の自由にならない「直観」を経験するからだ。または、その物事を確信している他人からの伝聞によるのである。

これを裏返してみれば良い。彼が「知らないもの」は、彼は経験していないから、彼がその存在を確信する根拠が無い。同様に、情報としても知らない。つまり「知らないもの」は、(なんと驚くべきことに!)彼個人にとっては「本当に存在しないもの」と同じ領域に位置付けられる。ここで言う、「本当に存在しないもの」とは、世界中の誰からも直接経験されておらず、情報としても知られておらず、しかも経験される可能性も無いもののことを言っている。(言い換えれば、世界②にも世界③にも含まれないし、含まれる可能性も無いものだ。)

日常の感覚からかなり遠いけれども、理屈を突き詰めていくとそう考えざるを得ない。我々はなんとなく、自分の外側に客観的な世界がある、と思っているが、実は日々新たに、繰り返し経験する物事を素材にして、意識の中に世界を構成している。

終わり

「現象学入門」(竹田青嗣)に基づいて〜「知らないものは存在しないのと同じ」の現象学的な意味 その1

「現象学入門」(竹田青嗣)に基づいて〜「知らないものは存在しないのと同じ」の現象学的な意味 その2

この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文

この記事が面白い、役に立った、と思った方はサポートをお願いします。