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詩の効用と和歌の胸きゅん性

アニメ「言の葉の庭」で何度も口ずさまれる

鳴神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ
鳴神の 少し響みて 降らずとも 我は留まらむ 妹し留めば

にはきゅんとしました。
和歌って良いもんだと思います。
和歌は実際、流行のドラマや少女漫画にも匹敵する、胸きゅんの宝庫だと思うのですが、そう思っている人はごく少数派でしょう。さらには日常和歌の話なんかしようものなら、「なんか教養をひけらかしてマウントを取っている」とさえ思われかねない。残念だなーと思う。

1.詩の効用

現代では、誰も彼もが詩を作ったりはしません。実際僕も全然作ってません。
だいたい そんなことするとキザだと思われるし、恋人に自作のポエムなんか上げようものならドン引きされること請け合いです。
でも昔の人は折に触れて空気を吸うように詩を詠んだのですね。もちろん、時代を越えて人口に膾炙する名作を作るのは簡単ではありませんが。
何が良いかって、通常の会話ではこっぱずかしてく言えないことも、詩にすれば言いやすい。しかも通常の言い方をするよりも、ずっと心に響くことがあります。かつ、別に自分で作った歌でなくても良い。その時々の状況にぴったりはまる歌であれば、他人の作った歌だって良いのです。シャイな人間が思いを表現するのにこれほど適した表現形式があるでしょうか。

もろともに なきてとどめよ きりぎりす 秋の別れは 惜しくやはあらぬ
古今和歌集 藤原後蔭

現代語訳「こおろぎよ、一緒に鳴いて止めてくれ、秋の別れは惜しくはないのか」

9月末、作者が大宰府に派遣されるに先立って、都で宴会をした折に詠んだ詩です。ただ別れが寂しいというより、なんと豊かに情緒を伝えていることか。31文字の短い詩なのに、別れを惜しむ気持ちと秋の景色と虫の音を、見る人(聞く人)の心にまざまざと喚起します。

2.和歌と胸きゅん

梅が香を 袖にうつしてとどめてば 春は過ぐとも形見ならまし
古今和歌集 詠み人知らず

現代語訳「梅の花の香りを袖に移して留めておいてしまえたら、春が過ぎてもその香りが春を思い出す形見にであろうに」

表面的には、花の残り香を詠んだだけの詩ですが、梅を人に見立てれば、どうでしょうか。
人の残り香を思い出のよすがにしているという、実に胸きゅんな意味にも取れます。
これは現代の状況にも全然余裕で適用できます。恋人の香水の香りを自分の服の袖に留めておけば、その人と別れてもその残り香を形見にできるだろうに。これはもうセンチメンタルの極みだ。
作者がこの詩を詠んだ時何歳だったのか、実際はどうだったのか、知る由もないけれども、老人が若い日の思い出に浸りながら詠んだのかもしれないし、若者が現在進行形で恋の真っ最中だったのかもしれない。
50や60になって恋なんかするのだろうかと10代の僕なら思ったでしょうが、今なら比較的容易に想像できます。
上の歌から派生した歌(つまり本歌取り。今でいう二次創作。)に次のものがある。

花にだに 添はでよそなる 梅が香を 袖にうつして春風ぞ吹く
新後拾遺和歌集 津守国貴

現代語訳「花にさえも付いていない、梅の香りを袖にうつしたら、春風が吹く」(この訳は自作なのでまちがってるかもしれないが)

春ではない季節だから、咲いている花からは梅の香りはしないけれども、梅の香りを袖にうつしておけば、吹く風も春風になる。この歌も、上の詠み人知らずの歌同様、思い人を思うセンチメンタルな解釈が成り立ちます。あなたはいなくなってしまったが、その香りを袖にうつしておけば、いつもあなたを思い出せます的な。こっちは本歌(元になった歌)よりメンヘラな感じがする。

3.まとめ

さて我々現代日本人が和歌に接する機会は、せいぜい高校の国語の授業の時くらいです。17、8の若者がこういう繊細微妙な心のひだを理解できるだろうか。僕自身はあまり深くは理解していなかったような気がする。

最近、というかこの記事を書いている日の夜ですが、25歳の若者とこういう話をしたところいともあっさりと、

「理解できるんじゃないですか?体操服の匂い嗅ぐのと同じですよね?」

と返ってきた。これには脱帽した。学校の授業でもぜひこのように教えたら良いと思います。

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