「中世の秋」(ホイジンガ)に基づいて〜聖者と純粋想起など

※この記事は、2020年7月のFacebookへの投稿に加筆訂正したものです。

 高校以来名前だけ知っていて、いつか読みたいと思っていたホイジンガの「中世の秋」を最近ようやく読みました。

 中世末の北フランスとベルギーを中心に、当時の価値観、風俗をこれでもかとばかりに山ほど例を引きながら語った本です。
 仕事にも何の役にもたぶん立ちませんが、あえて何か読むことのメリットを挙げるとすれば、中世人の考え方が現代人といかに異なっているかを知ることで、自分の考え方が変わる、というか相対化することにつながるかもしれません。日常会話でしばしば使われる通俗的な言い方を借りれば、「幅が出る」。

以下、ページ数は次の版による。
「中世の秋」ホイジンガ著、堀越孝一訳
中公クラシックス 2001年5月10日発行
中央公論新社

1.聖者と純粋想起

 あえて何か実用的な(?)話を引き出そうとするならば、キリスト教の聖者は実によくできたパーソナルブランド、あるいはブランド要素としての「キャラクター」だともいえそうだ。
 この節の話は、第12章「すべて聖なるものをイメージにあらわすこと」の記述をもとにしている。もちろんホイジンガはブランディングの話はしていない。

 多くの聖者の名前は、特定の病気と結びついている。
たとえば、

聖アントニウス:皮膚病に関連付けられる。4世紀前半、エジプトに初めて修道院を建てる。「聖アントワーヌ」の誘惑で有名。

聖マウルス:痛風に関連付けられる。6世紀頃の人。ベネディクト修道会をフランスに誘致したとされる。

聖セバスティアヌス:ペストに関連付けられる。3世紀、ローマで殉教。弓の射手の守護聖者。矢を射られた姿で描かれる。(ギュスターブ・モローの絵でも有名。)

「かくて、聖者は、病気のことを考えるとき、まずまっさきに想い浮かぶ存在となった。」

 要すれば、庶民は皮膚病にかかったら聖アントニウスに祈り、ペストになったら聖セバスティヌスに祈る。
 つまり、圧倒的な「純粋想起」が確立しているということだ。(「純粋想起」は広告業会の用語です。たとえば「牛丼なら吉野家」とか、「カフェならスタバ」のように、ある商品カテゴリを提起された際に、人の頭の中に、そのカテゴリに属する特定の商品が想起されること。商品がこの「純粋想起」を確立できているということは、「売れる」ことにつながります。)

 また、聖者には必ず特定のアトリビュート(持ち物、付属物)が付いている。たとえば、

聖女カタリーナ:車輪と剣。4世紀初、車輪の拷問を受けて斬首された。

聖ディオニシウス:自分の頭を持っている姿で描かれる。3世紀頃の人。パリのモンマルトルの丘で斬首された。

 聖者をパーソナルブランドと考えると、これらのアトリビュートはブランドのシンボルマークのようなものだ。聖者本人が描かれていなくても、車輪と剣で聖女カタリーナが連想される。

 中世にブランド戦略などあるはずもないのだが、うまくできてるなあ、と思わせられる。

2.現代人の「当たり前」が中世人にとっては全然当たり前でないわけ

 この節では、第15章を要約しながら次のことを整理したい。中世ヨーロッパでは「実念論、象徴主義、擬人観」による考え方が当たり前だったので、因果関係の探求は発展せず、したがって科学も発展できなかった、という理屈である。

 さて今まで、実念論とか新プラトン主義とか、辞書的な説明を見ても僕は正直ピンと来なかったのだが、第15章「盛りを過ぎた象徴主義」を読んで初めて納得できた気がする。

 プラトンのイデア論は知っている人も多いだろうが、ざっくりいえば、実在の物にはそれに対応する観念的な存在「イデア」があり、実在の物はその「イデア」の影に過ぎない、というものだ。

 確かにそれもそうだなと思う反面、だからなんだと思う人も多いのではなかろうか。ところがどっこいでして、このイデア論から発展した実念論が、中世ヨーロッパ人の脳みそをがんじがらめにし、科学の発展を何百年も阻害したという。

 この実念論、英語ではこれも「リアリズム」と言うそうだが(全然リアルではないのだが)、たとえば次のような考え方を指す。

ばらが、白と赤とりどりに、いばらのあいだに咲いている。と、中世の精神は、そこに、象徴的な意味をみてとるのである、すなわち、処女と殉教者とが、栄光に輝いて、迫害者のあいだに立っている、と。いかにしてこのような同一視が可能であるか。双方の特性が共通するからである。ばらの美しさ、やさしさ、純粋さ、血のような赤さを、処女と殉教者もまた、もっているからである。

Ⅱ巻、p77 第15章「盛りを過ぎた象徴主義」

 現代人からすると、「プリミティブな思考」(Ⅱ巻、p76)、要するに原始人の考え方であるが、これが実念論である。しかしロマンティックではある。

 この場合、何を「イデア」とするかは多少ばらつきが生じそうだが、白いばらには「純粋さ」とか「美しさ」というイデアがある。同様に、処女も「純粋さ」「美しさ」というイデアに対応している。このイデアは、両者にとって「固有」であり、「本質的」である。固有で本質的な同じイデアを持っているから、白いばらと処女は同じである、という考え方である。事物の本質は神の世界とも関連付けられて、両者は神の前で同じ意味を持っているとみなされる。

 これが中世ヨーロッパ人にとっては単なる比喩ではなく、「合理的」な考え方であり、因果関係の代わりをなすものですらあった。こう考えると、中世人が「白いばらは処女の象徴である」と言うとき、現代人が言うのとは比較にならないほど深い意味があったわけだ。この調子だから、何でもかんでも象徴に結びつける考え方が異様に発達してくる。象徴主義である。

 もうひとつ例を引用しよう。カトリック教会の霊的権力と、王侯の世俗的権力の正当性と、両者の関係も同様な実念論と象徴主義で説明される。すなわち、

中世においては、霊的権力と世俗的権力の関係をいうに、ふたとおりのシンボルによる比較の方法があった。ひとつは、神が、その創造にさいして、ひとつを上に、ひとつを下におきたもうたふたつの天体、日月による方法であり、ひとつは、キリストが捕われたもうたとき、使徒たちが所持していたという二本の剣による方法である。ところで、このふたとおりの比喩は、中世人の思考にあっては、たんに、ちょっと気のきいた比較のしかたというにはとどまらなかった。この神秘の関連から離れて両者の関係はありえず、日月両剣のシンボルこそ、この関係に正当な根拠を与えるものであったのだ。

Ⅱ巻、p99 第15章「盛りを過ぎた象徴主義」

 こうなってくると、「およそ名づけられうるものすべてを存在と考える」(Ⅱ巻、p77)ようになる。概念、性質、天体あらゆるものがイデアをもち、そのイデアは天上の世界の住人になる。そしてほとんどの場合、人間のような存在に見立てられる。擬人観である。

実念論、象徴主義、擬人観、この三つの思考方法は、一本の太い光の束となって、中世精神を照らしだしていたのであった。

Ⅱ巻、p81 第15章「盛りを過ぎた象徴主義」

 このような考え方に深く馴染んでいると、物事の原因を論理的に探求しようという姿勢は起こらなかった。実然論的な説明でみんな納得してしまうからである。自然現象に対しても、人間の営みに対してもである。したがって、近現代のような社会学、経済学、歴史学などのような人文科学も発展しなかった。

3.所感

 現代人は、ほうっておけば何でも線的に発展していくと考えているようなきらいがあるが、「ものの見方」が物事の発展を阻害する、ということを頭の片隅に入れておいたほうが良い。自分がどんなものの見方をしているかは、通常前面には出てこないし、その存在すら意識することが少ない。何か重要な判断をする場合、自分のものの見方を棚卸ししてみることで、思わぬ発見や、新しいより良い見解に辿り着けるかもしれない。
 普通に面白い本ですが、あえてこれを読む実用的なメリットを挙げるならば、そういうことになるかと。



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