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【書評】鷲田清一「思考のエシックス 反・方法主義論」

 前回の投稿に引き続き、またがっかりした本です。しかし、批判的に読むことで「学び」につながったことは間違いない。(そういうわけでハッシュタグに「最近の学び」も追加しました。)なんだかどうも、壮大なタイトルの本はだいたい、内容がタイトルに負けているのではないかと思ってしまう。それでも最後まで読んだのは、山崎正和がこの本を褒めていたからでもある(※)のですが、おかげで僕の中で山崎正和の株も下がってしまった。どうも、現象学をわかっていないのに批判しているように見受けられた。その結果かなりとんちんかんなことも書いている。

今回取り上げる本
鷲田清一「思考のエシックス―反・方法主義論」
2007/6/1、ナカニシヤ出版

※ナカニシヤ出版 WEBサイト
『思考のエシックス』書評掲載(『毎日新聞』〔9月16日付〕)
http://www.nakanishiya.co.jp/news/n8631.html

この本のテーマに期待が高まる

 この本のテーマは「まえがき」に素描され、第1部「<方法>というオブセッション」でも詳しく語られる。要約すると、次のようなものである。17世紀のデカルトの「方法序説」以来、近代の学問は何より厳密な方法を重要視してきた。科学が目覚ましい数々の成果を上げ、現代人が便利な生活を送れるのもそのおかげである。この本の基本的な問題意識は次の二つである。

❶厳密な方法を重視する考え方、いわゆる「方法主義」が、思考の豊かさや自由をかえって損なってしまっているのではないか?

方法主義に代わる、別の思考のあり方があるのではないか?

 思考の別なあり方があるとすれば、すなわちそれも一つの「方法」なのだが、その別なものに言及する際著者は巧妙に「方法」という言葉を避けている。たとえば「まえがき」では次のように書いている。

けれども、と立ち止まっておもう。思考の緻密さは思考の器官がみずから磨くナイフとしての「方法」によって極められるものなのか、と。ナイフではなくて絨毯のような、目のつまった濃やかなまなざしというものがあるのではないか。事象をときに覆い隠してしまう「方法」の緻密さではなく、事象に肉薄する別の緻密さの尺度というものが、思考にはあるのではないか。
(まえがき ⅱ)

 率直に言って姑息である。「まなざし」という言い方もポストモダンくさくくてもうこの時点で少し嫌になった。しかし、何か良いことが書いてあるかもしれない。山崎正和が褒めるくらいである。きっとそうだ、と思って目をつむることにした。

 実際、従来の方法に代わる新しい全く別な方法があり、しかもそれを用いれば、日常の経験の生き生きとした、鮮やかな感覚も損なわれないとすれば、すごいことである。そんなすごい考え方があるのだとしたら是非知りたかった。

この本の構成

この本は以下の通り、4部構成になっている。

●まえがき

●第1部 <方法>というオブセッション
 方法主義がさまざまな歪みを生み出していく歴史を素描。かなり難解。

●第2部 全体という擬制 <国家>の存在をめぐって

●第3部 意識のブラックホール フロイトを読む
 2部と3部では、「我思う」から最も隔たった「国家」と「無意識」を現象学的に考えているそうな。

●第4部 哲学・科学・ケア
 ひらたくいえば、標題に関するエッセイ集になっている。

●あとがき

現象学を誤解しているのではないか?

 まず「方法」とは何かについては、デカルトの「方法序説」を引用して説明される。方法とは何ものかに向かって、「自分が自分を導く」ものである。「自分自身の理性をよく導くためにひとが従わねばならないもの」、それが方法である。(以上、「」の引用文は方法序説から。)

 これは自分を自分で作り上げるという、近代の「自律」を重んじる考え方につながっていく。自律自体は美徳とされるものだが、これが個人、共同体、思想や学問において、悪い方向に作用することがある。すなわち、自律的であるということは自己完結的であるということであって、それだけで成り立ちうる合理的な体系を作ろうとする。「一種の閉鎖系を構築しようとするのである。」(p12、第1部「<方法>というオブセッション 第1章「方法のエチカ」)

 なるほどもっともだと思ったが、この辺りからだんだんあやしくなってくる。ハイデガーの文章を引用し、ひらたくいえば、これが純粋で閉鎖的な体系を作ろうとする思想だと指摘しているように見える。ただ、注意深く読むと、自分の意見としては表明していないので、著者自身がどう考えているか(現象学を誤解しているのかどうか)は、この段階ではまだわからない。p13ではヴァンデルフェルスとフーコーを登場させ、このような考え方を「<知>の閉鎖系の理念」として批判させている。さてハイデガーの引用とは次の文章である。

事物と存在者全体についての一切の意識は、すべての確実性の揺らぐことなき根拠たる人間的主体の自意識へと還元される。現実的なものの現実性は、それ以後客体として規定される。(中略)
存在するあるがままのいっさいを<人間の所有物、生産物>とするニーチェの教説もまた、いっさいの真理を人間的主体の自己確実性に還元するあのデカルトの説を極限にまで展開せしめたにすぎない
(ハイデガー『ニーチェ』園田宗人訳)本書p12から再引用。

 一切の根拠を人間の自意識に還元し、それに基づいて自己完結的な世界を構成する、という現象学の考え方を、著者は閉鎖的であるとして非難したいかのようである。

 世間でよく言われるような、「心を閉じず、外の世界に開くべきだ」という主張を間違っているというつもりはないし、僕も正しいと思っている。しかし、ここで「閉鎖系である。だからだめである。」というのは実は全く意味がない

 というのも、結論から言えば、ハイデガーのこの言葉を捉えて思想が「閉鎖系」であると言うなら、人間の考えることはたった一つの例外もなく全て「閉鎖系」なのである。だから「閉鎖系」であることがだめだとしたら、人間の思想は全部だめである。したがって、どんな「閉鎖系」なら良いのか、どんな閉鎖系ならだめなのか、まで踏み込まないと、完全に意味のない主張である。以下、かみ砕いて説明してみる。

 これはフッサール以降の現象学で打ち立てられた基本的な考え方だが、人間が「ある」と思っていることは全て意識が作ったものであって、その根拠はその人間が自らの体験から得た情報しかない。人間の認識能力が完全であることは証明できないから、人間が「ある」と思っている事物がその通りに本当に存在するかどうか、言い換えれば客観的に実在するものであるかどうかということは、証明のしようがない。従って、人間がなんらかの「存在」について考えるなら、「我思う」から始めるしかない。我思っているからといって、我という人間が存在することの証明にはならないが(もしかしたら我はAIかもしれないし、ちょうちょが見ている夢の中の存在かもしれない)、少なくとも思っている以上は、なんらかの「我」は確かに存在しているのである。

 そして、その「我」にとって、五感から得られる情報は意識によって自由に操作することができない。熱くないと思っても火は熱いし、冷たくないと思いたくても氷は冷たいのである。見たくないものでも目に入るし聞きたくないものでも耳に入ってくる。このように、意識の自由にならないものが意識の中に入ってくる。人間の五感の確実性は保証されないのであるから、客観的な存在の証明にはならない。しかし、少なくとも「我」にとっては、外部の世界や他者の存在を疑うことができなくなる。現象学でいう「明証性」とか「根源性」というものはこういうことであって、客観的な実在がある、と言っているのでは全然ないのである。体験を素材として、「我」は他者とか世界とかを自分の意識の中に構成する。自分の意識の中に「世界」を作るのである。

 先のハイデガーの言葉の意味は、人は自らの体験から得た情報をもとに、他者とか世界とかが確かに「ある」と考えるようになる、ということである。そういう意味で、「一切の意識」は「自意識へと還元される」し、「現実的なものの現実性」が「客体として規定される」と言っているのである。

 そういうわけだから人間の考えることは全て「閉鎖系」である。

「純粋主義」の紹介は面白かった

 いずれにしても、フッサールの現象学の方法が、「閉鎖系を構築しようとする」ということは正しい。前述の通り、人間の考えることはそもそも最初から全部閉鎖系なのだが、現象学の方法が誤解されてか、あるいは単純に「かっけー!」と思われたためか、以後の学問や思想において、純粋で自己完結的な理論体系を構築しようとする傾向が高まった。これが20世紀最初の四半世紀に現われた、いわゆる「純粋主義」(ピューリズム)(p31、第1部 第2章「方法の臨界」)である。あらゆる学問や芸術においてこの傾向が顕在化した。例えば次の通りである。

・ケルゼンの純粋法学

・ワルラスやシュンペーターの「純粋経済学」

・ジイドの「純粋小説」

・デュラックの「純粋映画」

・アルトーの「純粋演劇」

・チボーデの「純粋批評」

・形態の純粋性を追及したセザンヌ、モンドリアンの抽象画、ゴッホやゴーギャンの色彩の純粋性、カンディンスキーの抽象画、ブランクーシの純粋彫刻(P33)

・意味を放逐する純粋音声詩(P34)

などなど。

 バウハウスのシンプルなデザインへの志向もこの流れにありそうだ。方法主義の徹底が、自律的、自己完結的な体系の追及につながり、その果てにあらゆる分野で純粋性が求められるようになったということだ。これは非常に興味深いし、近代デザインの潮流への理解が深まった。ここは読んで良かった。

素朴な実在論に戻ってしまっている

 やはり難解な現象学はフッサールやハイデガーの同時代人にとって誤解されたらしい。その誤解が純粋主義の淵源となるのだが、もう少し詳しく振り返っておく。

 現象学では、ものの本当の意味を問うために、意識にある雑多なものをそぎ落とし、人がそれ以上は疑い得ない認識を特定する。これを「還元」という。その疑い得ない認識が、前述の「火に触って熱かった」とか「氷に触ったら冷たかった」とかである。このような認識が「絶対的明証性の領域」(P37)と言われる。人はこの明証的な認識の上に、勝手な憶測を積み上げて、あるんだかないんだか良くわからないものを意識の中に作ってしまう。それが「存在定立の作用」(P37)である。たとえば、墓場で火を見ただけで「幽霊がいた」と思ってしまうようなことである。フッサールは、正しい認識のためには、このような「存在定立の作用」を遮断する必要があると説いた。ちなみにP36〜37あたりでは、これをものすごく難しい言い方で説明している。この、雑多な存在定立の作用を排除して、純粋なものだけを残すべきであるという主張が、同時代人に拡大解釈されて純粋主義につながった、という理屈は筋が通っている。

 「?」と思ったのは次の文章だ。

注意しなければならないのは、この操作によって世界が遮断されるのではないということである。そうではなくて、、世界への素朴な「一般定立」的態度がともに働きだすのが遮断されねばならないということである。つまり「世界は排除によって主題群として消滅してしまうのではなく、はじめて本来的にそのものとして問題となる。」
(P37、第1部 第2章「方法の臨界」)

遮断できる「世界」がもとから存在している、と決めてかかっているようにも読める。筆が滑っただけなのか、それとも本当に現象学の基礎を理解していないのか。その疑いは次の箇所ではっきりする。

(フッサールの理論は)意識機能の隠された条件として身体性や言語記号、他者との交通関係(間主観性)、意味と明証性の基盤としての生活世界といった、コギト(あるいは主体の自己反省の場面)にとって外在的な諸契機の地平構成的な機能を、意識にとってもはや還元不可能な基層として露呈したのであった。
(P40)

 もう明白である。「客観的な実在」が証明できないからやむを得ず、いうなれば戦略的に「我思う」から始めたのに、無条件で「他者」とか「世界」(生活世界)とかの存在を認めてしまっている。いわゆる素朴実在論であり、デカルト以前の素朴な世界観である。現象学の理論にいかに欠点があったとしても、ここを否定することはできないのではなかろうか。

 デリダやメルロ=ポンティが盛んに引用されるのだが、彼らは竹田青嗣の「現象学入門」で、現象学を理解せずに批判している人々として槍玉に上がっている。鷲田も彼ら同様の間違いを犯している。竹田青嗣の本は、以前ノートに書いたことがあった。こちらはとても良い本である。先にこちらを読んでいなかったら、僕も大多数の読者同様、煙に巻かれていただろう。

総評

 第1部から第3部まで、論点のすり替え、論理的飛躍、難解な用語と引用による壮大な道具立て、それにもかかわらずのごくありふれた結論、これらのオンパレードである。先に挙げた「純粋主義」のように、エピソードとして読めば面白いものもあるが。

 翻って、第4部「哲学・科学・ケア」では、著者は自分自身の言葉で語り、鋭い洞察が鮮やかな筆致で述べられているところもある。

 結局、「まえがき」で著者が述べていた「ナイフではなくて絨毯のような、目のつまった濃やかなまなざし」とか、「事象をときに覆い隠してしまう「方法」の緻密さではなく、事象に肉薄する別の緻密さの尺度というもの」(を備えた方法)とは、なんのことはない。要するにエッセイである。事象がまだ良くわからないうちは、いきなり厳密な理論をあてはめるのではなく、思い付くままにラフスケッチを行えば良い。そういうごく当たり前のことである。

 もちろんなんらかの問題解決に至るには、ラフスケッチで終わったらだめである。ラフスケッチを繰り返すことで、その事象に適した方法が何であるか見当が付くようになり、精緻な方法を組み立てていくことになる。

 「あとがき」で次のように述べられていた。

現象学を研究するのではなく、現象学をやりたくなったのである。
(p291、あとがき)

 その企ては失敗していると思う。大阪大学総長にまでなった現代思想界のビッグネームが、こんないい加減な本を書いていることに驚愕し、正直なところ憤慨した。こんな本があるから、「思想とか哲学なんて、当たり前のことを無駄に難しく言ってかっこつけてるだけ」と思う輩が出て来るのだ。山崎正和はこの本をちゃんと読んでいなかったのだと思いたい。










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