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宮本から私へ、私から宮本へ

私にとって映画館とはパラレルワールドのようなもの。
その映画を見ている時だけはその映画の中の世界の人間になっていて、だから僕は逃げるように週末映画館に行っていたように思う。
例えばふと誰も私を知らない地へ行きたいと思うような感覚で私は映画館に足を運んでいた。
実世界の何が嫌というわけではなく、辿り着く先が映画館であった。救いでもあり、居場所でもあった。


1人の時間が多かった私は一度出来上がっていた人格を崩し、それを土台に映画によって人格を再形成された。青い春、リリイシュシュ、ウェンディ&ルーシー、オアシス…たくさんの映画が私の肉片に散りばめられている。
そして見終えたあと目が赤く迸る感覚がし、心臓がの鼓動が体の内に溜まっていく、その映画が「宮本から君へ」だった。


原作は知っていたものの読んだことがなく、映画より前にテレビ東京でやっていたドラマ版で私は宮本に惹かれた。
日々の生活に満足できない(幸せ貧乏)、己がカッコいいと思ったことは曲げない、いわゆる大人を理解できない宮本。正直どこか嫌悪を感じることもある。鬱陶しさや呆れてしまうこともある。それでも気づけば体に力が入ったまま宮本が宮本のために起こす行動に納得することを願っている自分がいる。

それはスポーツ観戦で応援したり、友達の夢の成功を願うのとは全く違う。
それは宮本が私の中にいるからなのだ。
社会や現実に折り合いをつけて生活する中や人と対峙する中で人間らしさよりも円滑さを選択し生きる私。人間らしさ、純粋で阿呆な宮本(内なる私)。僕は宮本の全てに腹が立ち同調する。本当は宮本のように生きづらい選択をしながらも人から求められる事を隅においても、自己満足のための自己完結な行動、言動をしたいと思う。

僕にとって映画とは現実と違う世界線だと冒頭に言ったが、「宮本から君へ」は私と表裏一体な世界線なんだと思う。彼は身体的、精神的な犠牲も顧みず、彼女を強姦したタクマを倒そうとしている。自分のために。
電車の席を譲ることは一般的に優しさだと言われているが僕の場合は帰った後に、「あの時私が席を譲ればよかった」などと後悔し嫌な気持ちになりたくないからなのだ。私と宮本の中心はどこまで行っても自分なのだ。だからこそ自然と宮本の自己満足を心から願い一方的にだが心中も厭わないとさえ思っている。

前歯が数本抜け、腕はギブス。そんな宮本の笑顔に内なる私が呼び起こされある種の洗礼さを覚える。

どこまで行っても私には私が付き纏うし、宮本にも宮本が付き纏う。彼も私も一生自分に満足することはなく、己以外敵なのである。愛も含めて。

だけれどもこの現実の世界線で私は宮本のようには生きてはいけない。宮本とは違う。一度でも逃げてしまった私はそう簡単には立ち向かうスキルを取り戻さずにいる。
だからこそ私は自分の中にある宮本を大切に忘れずに進んでいきたい。どうしても見栄や体裁を過保護にしてしまう時、宮本の血走る姿や歯の抜けた笑顔、宮本の取り巻く全ての登場人物が人間らしさを教えてくれる。自分の本当の目的を忘れさせないでくれる。映画の中で宮本に出会えてよかった。私にとっての宮本とこれからを昇っていく。


私は週に2回ほどフットサルをしている。自分を愛するために自分の中のような美学を実行し、自分に嘘をつくことない時間である。私の生活の中で一番自分の中の宮本が現れている瞬間だ。

そして先日のフットサルで私は肋骨を骨折した。相手の足に引っかかった際の転倒で自分の肘が肋骨に入ってしまった。アドレナリンが出ていた為、軽い痛みはあったもののその後1時間ほどそのままボールを追いかけていた。

帰宅後、熱いシャワーを浴びているとし痛みが膨張していく。右の肋部分だけ異様に腫れていた。明日のお昼休憩は何を食べようか考えながら布団に入った。仰向けは常に痛みを感じた。横向きはさらに肋骨に負担をかけたようでもっと痛かった。結局仰向けになったまま目を瞑り、まだ痛みが強くなっているように思う。
大きく息を吸うとさらに痛くなって笑い声が溢れた。そのまま痛みがある限り笑い声が止まらなかった。笑っているとなんだか楽しい気分になってきた。宮本の歯が抜けた純粋な笑顔を目が閉じた暗闇の中に再生される。
宮本から私へ、私から宮本へ。

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