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「現代思想 2023年12月号 特集=感情史」/シュタイナー『こころの不思議』/安田登『あわいの力』

☆mediopos3304  2023.12.4

「現代思想」12月号の特集は「感情史」

このところようやく「感情」が
クローズアップされるようになり
それらが社会・政治・文化の領域とも
深くかかわっているという「感情史」が
論じられるようになってきている

それらについて見ていくのは興味深いが
それ以前に重要なのは
まずじぶんの感情に向きあうことだと思われる
そうすることのないまま
感情を外的に起こる現象のように抽象化して分析しても
じぶんの感情を豊かにすることにはならないからだ

感情について理解するには
じぶんの心の鍵盤に
それに対応して奏でられる感情の鍵を
ある程度用意しておく必要がある
感情を奏でられないままでは
感情を論じることはむずかしいだろうからである

以下の引用ではルドルフ・シュタイナーの人間観について
西川隆範によるその概略を紹介しているが
シュタイナーは霊的世界観に基づき
心魂の世界を想像上のものとするのではなく
実在するものとしてとらえ
「心魂界」が実際に存在し
そこでは諸存在が実際に存在していて
人間の思いもそこで実在化しているとしていた

じぶんの「感情」に
どのように対する必要があるかということも
その人間観に基づいて示唆されている

それによれば私たち人間の課題は
肉体・エーテル体・アストラル体・自我
そして思考・感情・意志の均衡をもたらすことである
逆にいえばその均衡が崩れることで
心の均衡も崩れ病気になったりもする

そこで重要になるのが自我(個我)で
シュタイナーの精神科学/人智学では
その自我を現代に適した仕方で確立するということが
霊的進化の重要な課題となっている

しかしながら
心魂の世界を実在するものとしてとらえ
そのさまざまなありようのなかで
みずからの心魂を育てていくということは重要だが
そのために「超感覚的世界」を認識する力が必要だ
ということにもなっているので
じぶんの心魂に日々向きあうにあたっては飛躍が大きく
結果的に向きあえないまま
アストラル体が云々といった図式的な理解で
終わってしまっていることも多いのではないかと思える

シュタイナーの示唆は精神(霊)「科学」であって
「学」であるということから
個々の魂がみずからを統合へと導くための
プロセスに関する示唆については
説明はある程度可能だが
実際的なところがそれには伴わないままになりがちである

必要なことは修行法も含めて記されてはいて
それを実践していけば霊的認識が得られる
ということになってはいるのだが
それは基本的に西洋人向けのものでもあり
さらには個々がみずからに向きあうための
内的な深化に関する示唆については乏しいところがある

シュタイナーは生前精神分析批判も行っていたが
死後におけるそれらの展開を含めて考えるならば
ユング的な「個性化」の視点といったものを
そのプロセスに応用していく必要もあるのではないか

いうまでもなくユングのそれは
心魂世界の実在を前提としてはいないのだが
その心魂世界の錬金術的統合である「個性化」の視点は
精神科学的な人間の構成要素の均衡という意味では
重要な示唆に富んでいると思われる
そしてじぶんに向きあわないわけにもいかなくなる

みずからの「心」に向きあう視点として
能のワキでもある安田登の「あわいの力」
という視点も重要だろう

安田登によれば
「心」といういわば「自己意識」は
孔子や釈迦の時代に生まれ始め
その後それが肥大しつづけているという
そしてそれをどのように制御すればいいか
ますますわからなくなってきている

孔子や釈迦やイエスはまさにそれを示唆していたのだが
それが可能となるほどには
心を育てることがいまだできないでいるのである

「ワキ」は「シテの残痕の思いを
ただ黙って聴く力が求められる」

わたしたち一人ひとりのなかには
シテもワキも存在していて
シテとしてのじぶんの思いを
ワキとして聴くことも重要である
それはユングの示唆する
「個性化」ということでもあるだろう

さて「現代思想」の「後記」に
興味深い示唆があったので引用しておいた
「感情」を表現する言葉についてである
そこではこんな問いかけがなされている

「その微細に多様なニュアンスの一つひとつに対し
それを可能な限り正確に写し取ったほとんど無数の
ボキャブラリーが用意されている言語と、
たった一つの語しかなくそれゆえにその一語自体が
ほとんど無限の多義性をもつことになる言語と、
どちらがより「豊か」なのだろうか」

あらゆる音階とそれに意味をもたせた音楽のように
感情の差異を表現する無数の言葉があれば豊かなのか
一音のなかに無限を響かせる音のように
一語に多義性をもたせた言葉が豊かなのか

それはおそらく二者択一ではなく
どちらにせよ
実際に感情を経験し得る心魂の力を
いかに豊かに育てるかということだろう

どんなにたくさんの言葉があっても
その響きに共振できなければただのノイズであり
一語のなかにある深みを生きられなければ
それはただの鈍感さの表れでしかない

重要なのは
いかに感情を豊かにし得る
プロセスを歩んでいけるかということだ

■「現代思想 2023年12月号 特集=感情史」(青土社 2023/11)
■ルドルフ・シュタイナー(西川隆範訳)
 『こころの不思議』(風濤社 2004/8)
■ルドルフ・シュタイナー(冥王まさ子/西川隆範訳)
 『魂の隠れた深み/精神分析を超えて』(河出書房新社 1995/2)
■ルドルフ・シュタイナー(西川隆範編訳)
 『シュタイナー 心理学講義』(平河出版社 1995/9)
■安田登『あわいの力/「心の時代」の次を生きる』(ミシマ社 2014/1)

(「現代思想 2023年12月号 特集=感情史」〜「編集後記」より)

「例えばある不確かで漠然とした、かたちも色も絶えずうつろって定まることもなければそもそもはっきり目に見えるとさえ言いがたい何ものかについて誰かあるいは自分自身にそれを伝え共有するために言葉というものがあるとして、その微細に多様なニュアンスの一つひとつに対しそれを可能な限り正確に写し取ったほとんど無数のボキャブラリーが用意されている言語と、たった一つの語しかなくそれゆえにその一語自体がほとんど無限の多義性をもつことになる言語と、どちらがより「豊か」なのだろうか。少なくとも論理的には両立しないこれら二様の豊かさの尺度はしかし現実にはしばしば無自覚に併用されるもので、だから一方ではゆかしき古語の陰翳に富んだ曖昧さを寿ぎながらも他方で————大抵は新しいというだけで醜く見える————新造語の驚くべき汎用性を言語の貧困や劣化と嘆くという矛盾が、平然とまかり通るようにもなる。SNSの「いいね!」ボタンは人々のコミュニケーションを単純化するように見えて実はそのただ一つの記号にさえ私たちはそのつどさまざまな意味を、感情を込め/読みあってしまっていた————ということにようやく気づいたのは、やがて数種類の顔文字によって応答の選択肢が半端の増やされたときだった。先に示した二つの豊かさの極限はともに、おそらくは私たちの感情=言葉がもちうる「自由」の究極を示す理念型でもある。それを手放さずにいることが、常にオプションを授けることによって奪う権力を出し抜くために必要な最後のよすがなのかもしれない。」

(シュタイナー『こころの不思議』〜西川隆範「編訳者はしがき」より)

「人智学の創始者ルドルフ・シュタイナーは『心理学講義』(平河出版社)と『魂の隠れた深み』(河出書房新社)で、アシストテレスの『心魂論』からフロイト、ユングの深層心理学までを論じています。
 シュタイナーの精神科学=人智学では、人間を〈物質的身体・形成力体(註:エーテル体)・感受体(註・アストラル体)・個我(註:自我)〉の四部分に区分します。(・・・)
 〈思考・感情・意志〉のバランスが崩れると、心に変調をきたします。〈物質的身体・形成力体・感受体・個我〉の均衡、心の三つの力である〈思考・感情・意志〉に釣り合いをもたらすことが、シュタイナー派の心理療法・芸術療法で試みられています。」

「「こころ」という日本語は、もともと人間の内臓を指しました。(・・・)
 「心」という漢字は、心臓の形に由来します。(・・・)心・ハートに対して、たま(霊・魂・魄)は玉に由来すると考えられています。身体をつかさどるのが魄、精神をつかさどるのが魂です。霊という漢字は、上部が天から下だる滴、下部が巫女です。
 かつて、もっぱら心を探究したのが仏教でした。心の働きとして、感受・表象・意志・認識を挙げ、通常の意識のほかに、末那識(意識下の自己愛の根源)と阿頼耶識(人間存在の根底をなす意識の流れ)があると考えました。阿頼耶識は過去の業から生じたものであり、すべてを生み出す種子を蔵しているとされます。末那識は阿頼耶識を自我だと考えて執着します。(・・・)
 神道では四魂を言います。和魂・荒魂・幸魂・奇魂です。静止状態にある温和な神霊が和魂、勇猛に激しく活動する神霊が荒魂です。幸魂は人に幸福を与える神霊、奇魂は不思議な力を持つ神霊です。
 近世の日本思想においては、人間が〈からだ・こころ・たましい〉の三つに分類されてきました。」

「シュタイナーは、人間を〈身体・心魂・精神〉に分けます。理性的・知性的な精神(Geist,spirit)に対して、心魂(Seele,soul)は主観的です。心魂は、身体からも精神からも影響を受けます。身体をとおして、心魂は外界・感覚界を感受します。身体から影響を受けて物質を志向するか、精神から影響を受けた思惟を生かすかです。
 シュタイナーは心魂を、感受的心魂(Empfindungsseele,sentient soul)、悟性的心魂(Verstadesseele,intellectual soul)、意識的心魂(Bewusstseinsseele,consciousness soul)に分類しました。外界・感覚界を感受する心魂、外界から受けとった印象を内面で思考する悟性的な心魂、内面に向きあって自己を意識する心魂です。(・・・)
 この三つの心魂部分の中心に存在するのが個我であり。この三つを越えたところに精神的自己(霊我)があります。この三つの心魂部分のどこに自分が生きているかを認識することが、自己の現状把握のために大事です。
 一般の心理学とシュタイナーの精神科学との最大の相違点は、心魂の世界を想像上のものとするか、実在するものとするか、にあります。シュタイナーは、心魂の世界は単なる内面世界ではなく、心魂界という領域が異次元世界として実際に存在すると考えていました。心魂界にはさまざまな存在たちが生きており、そこでは人間の思いも実在化している、と彼は見ていました。
 シュタイナーは心魂の世界を、七段階に分けています。下方から上方に向けて。「欲望の炎の領域」「流れる刺激の領域」「願望の領域」「快と不快の領域」「心魂の光の領域」「活動的な心魂の力の領域」「心魂の生命の領域」です。シュタイナーが言う心魂界は、仏教では欲界中の六欲天、神道霊学でいう幽界、キリスト教神学でいう煉獄に相当します。
(・・・)
 心魂世界が実在するという考えに立つと、さまざまな心の問題が近代の心理学とは異なった観点から眺められることになります。心の好調・不調の背後に、心魂世界の存在の働きかけが想定されることになります。心魂界には善悪入り乱れて、多様なものたちがうごめいている、という考え方になります。
 まず、私たち人間の想念が心魂界に力を発しています。善良な思念もあれば、邪まな欲念、恨みのこもった情念もあるでしょう。心魂界の特徴として、自分の発する思いが、逆向きの姿で見えるということがあります。たとえば、自分が発する闘争心が、自分に襲いかかってくる獣のように見えます。この場合、自分の闘争心をなくせば獣は消え去るのですが、自分に向かってくるように見える獣を外在のものと思うと、いつまでも解決しません。
 他人から到来する恨み・妬みもあります。その念を受けると衰弱しますし、その念を発している当人はもっと荒んで心理状態になっていきます。だれかの憎しみを受けて苦しんでいると訴える人の場合、実際にそうなのか、思い込みの幻影なのか、入念に見極めなくてはなりません。自分の内的な問題を。想像上の霊界に投影しているケースも多々あるはずです。また、どのような問題も霊的なものだと説明して、収集をつかなくさせている宗教家・霊能者もいるでしょう。
 死者の遺恨も、心魂界に渦巻いています。日本では、死者の執念を浄化することが最大のテーマでした。先祖の成仏のための供養もそうですし、戦の敗者をねんごろに弔うのは、怨念を残さないためです。現実社会が安泰かどうかは、心魂界が静まっているかどうかによる、と考えるわけです。現代は心魂の存在を否定しがちなために、霊魂の扱いがずいぶんなおざりにされています。自らの存在に気づいてもらえない想念存在が、慰められすに荒らぶることがある、と言われています。
 生者の思い、死者の思いのほか、さまざまな精霊たちも人間の生活に影響を及ぼします。これらの存在は、人間が善良な思いを向けていると恵をもたらすのですが、そうでないと害を与えることもあります。
 シュタイナーは、天界には神的存在のほかに、悪魔的存在もいると考えていました。人間を耽美的幻想に誘う存在と、物質的な征服欲に邁進させる存在です。前者は人間を高慢にし、後者は人間を攻撃的にします。
 私たちは多かれ少なかれ、この双方の悪魔的な力を受けている、とシュタイナーは述べています。そして、この双方の力に向かい合うことで人間は進歩していく、と彼は考えています。大事なのは。悪魔的な力に向かい合うことのできる。確固とした個我を持っていることです;そうでないと、悪魔的な力に取り憑かれることになります。
 シュタイナーの精神科学・人智学は、自分の形成力体・感受体をコントロールできる個我、思考・感情・意志に調和をもたらせる個我、心魂界の諸存在・諸力に対峙できる個我の確立を説くものです。」

(安田登『あわいの力』〜「はじめに」より)

「現代は「心の時代」といわれます。
 しかし「心」は昔からあったわけではありません。
 昔の人間には「心」がなかったのです。
(・・・)
 人類は、この地上に生まれながらにして「心」を持っていたのではなく、あるときまでは、「心」を持たずに暮らしていた。それが、どんなきっかけがあったかはわかりませんが、あるとき人類は、「心」という名の「自己意識」を獲得し、主体的な意思や自我を獲得した。それを表現したのが「心」という文字だったのではないか。」

「孔子といえば『論語』ですが。『論語』には、この厄介な「心」とのつきあい方が書かれています。
 そして、孔子と時を同じくするように、インドでは釈迦が生まれ、仏教の礎を築きます(・・・)。さたに、孔子から五百年近く遅れて、イエス・キリストがこの世に生まれます。
 釈迦もイエスこ、その身をかけて説いたのは、孔子と同じく「心」とのつきあい方です。」

「現代は孔子と釈迦とイエスの三人の聖人たちが生きた時代よりも、「心」の問題がますます大きくなっているのでしょう。
 自殺や精神疾患の増加が象徴的に示すように、「心」が身体を超えて巨大化し、人類は「心」を制御できなくなっているばかりか、自らがつくり出した「心」によって、いよいよ押し潰されそうになっているように思えてなりません。
 この「心」の副作用から逃れるには、「心」に代わる何かを手にするしかない。」

(安田登『あわいの力』〜「第十章 「あわいの力」を取り戻す」より)

「いま、時代がちょっとキナ臭い方に向かいつつあるように感じています。こういうときこそ、「こころではない異界」をつくり出すときです。相手の顔色を見て、何かを言っているときではないと感じています。

 社会のなかに「異界」が増え、ワキ的な人たちが増殖するためには、「空白」の空間と時間が必要です。
 何もない空間があるからこそ、そこに何でも流れ込むことができる。なんでもな人がいるからこそ、そこにいろいろな人が寄ってくる。」

「想像性は「何もない」「空白」だからこそ生まれます。しかし、いまの社会は時間と空間の「空白」を埋め、子どもの「なんでもない」時間を奪っています・そのほとんどが、大人が「よかれ」と思って子どもにしていることですが。それが子どもの可能性の芽を摘んでいるように感じるのです。
 現代に、「異界」を取り戻し、その「異界」から新しいものを生み出していくためには、「何もない」「何も与えない」時間や空間をつくることが大切でしょう。ワキが物語の途中で何もしなくなり、「異界」から来たシテの残痕の思いにただひたすら耳を傾け、それがシテの思いを解き放つように、「何もない」「空白」の時間と空間こそが、「異界」の住人の子どもを、本当の意味での大人に育てることになると思うのです。
 それが、「異界」と実社会をつなぐ「あわい」の力です。
(・・・)
 ワキには、シテの残痕の思いをただ黙って聴く力が求められます。
 それと同じく、一見すると理不尽に暴れているような子どもの行為を、大人はどれだけ懐深く受け入れることができるのか————。それが、二十二世紀を生きる人たちを、育てる第一歩になるのではないかと思います。」

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