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成田正人『なぜこれまでからこれからがわかるのか/デイヴィッド・ヒュームと哲学する』

☆mediopos2908  2022.11.3

今まさに経験している現実の多くについては
とりあえず推論する必要はないだろうが

経験していない現実については
帰納的に推論することで
私たちはそれを知ろうとする

「これまでこうだった」から
「これからもそうだ」と推論する

けれども
「これまでこうだった」としても
「これからもそうだ」とは必ずしも言えない

蓋然性の高い「これからもそうだ」もあれば
ときには思いがけない現実も現れる

時間は賽子を振るのだ

経験している現実は今である
過去はすでになく
未来は未だ来ていない

「これまでこうだった」は過去の記憶だが
「これまでこうだった」という「原因」を
どのように捉えるかによって
「これからもそうだ」という推論は
ずいぶん異なってくる

数学や自然科学では
経験が一般化・抽象化され
蓋然性の高い推論がなされるが
その場合でさえ
確実な未来はわからない

そもそも未来があるかどうかも
現在では確実であるとはいえない
いきなり時間がなくなってしまわないともかぎらない

現実とされるものが
ある種のプログラムされたヴァーチャルなものであるとして
そのプログラムが壊れてしまったとき
過去も未来ももちろん現在でさえも
それらの現実は失われてしまうのかもしれない

それでも私たちは未来はあると信じ
すべてを行き当たりばったりにしないで済むように
「これまでこうだった」をもとに
「これからこうなる」という未来を知ろうとする

古から預言者は未来への言葉を預かり
予言者や占い師は
未来を「これからこうなる」と告げる
おそらくこうしたことは人間の業のひとつかもしれない

「これまでこうだった」も
「これからこうなる」も考えることなく
今をそのまま生きられればと切に願うのだが
どうしても私たちは未来がどうなるかを知りたがる

■成田正人
 『なぜこれまでからこれからがわかるのか/デイヴィッド・ヒュームと哲学する』
 (青土社 2022/9)

(「第4章 私たちはどのように帰納しているのか?」より)

「私たちが帰納で推論するのは、経験していない現実です。だから、私たちが、今ここで経験する現実や、過去に経験した現実は、——ときに誤ることや忘れることはありますが、——帰納的な推論で知られるわけではありません。たとえば、自分が、今立っているのか座っているのかを知るために、あるいは、昨晩何を食べたのかを知るために、推論が必要になることは(普通は)ありません。なぜなら、このようなことは(印象の)経験や記憶(の観念)から(普通は)直に捉えられるからです。
 しかし、このような直接の経験を超えて、何かを知ろうとするなら、そこでは帰納が為されることになる。たとえば、私たちは、帰納的に推論することで、白亜紀の地球がどうだったのかを窺い知ることができます。あるいは、明日になる前に、明日の天気が晴れるかどうかを予め知ることができます。もちろんそのような帰納的な信念は必ずしも正しいとはかぎりません。しかし、私たちは、現前しない現実を知るためには、帰納に頼らざるをえないでしょう。」

(「第5章 どうして自然の歩みは変わらないのか?」より)

「原因から結果(ないし結果から原因)への推論は、本質的に帰納であるがゆえに、「帰納の問題」を逃れません。原因と結果の関係は、「観念の関係」ではなく、「事実の問題」であるからです。ここにヒュームの「帰納の問題」は生まれます。すなわち、因果的に想像される観念が、論証的な知識でなく、蓋然的な信念であると、彼の「帰納の問題」は生じるわけです。(…)どうして私たちは、自然の歩みは斉一的である、と信じるのでしょうか。本当に自然の歩みは変わらないのでしょうか。そのような一般化に何か正当な理由はあるのでしょうか。」

(「第6章 どのような帰納がどうして正しいのか?」より)

「私たちに一般的な経験はありません。経験は(なぜか)すべて個別的です。しかし、帰納は個別の経験を一般化します。もちろん、「自然の斉一性」が正当な原理であるなら、帰納はそれを正当に成し遂げるでしょう。しかし、「自然の斉一性」はそれ自体が帰納的な信念なのではないでしょうか。すると。私たちの帰納に正当な根拠はないのでしょうか。(…)私たちは正しく帰納できるのでしょうか。いや、そもそも帰納の正しさとは何なのでしょうか。」

(「第7章 過去と未来はどのように異なるのか?」より)

「なぜ私たちは帰納(的な信念)の正誤を区別できるのでしょうか。たとえば、私たちはそれを「確信の程度」から確率論的に定義できるかもしれません。あるいは、さらに帰納(的な信念)には真理値を付与できるかもしれません。なぜなら、それは「現実の存在」に対応しうるからです。だが、ここで「現実の存在」とは何なのか。もちろん準実在論的にはそれは理想的な「想像上の基準」です。つまり、個別的な帰納(的な信念)は一般的な「想像上の基準」との対応いかんで真(理)や(虚)偽になります。しかし、経験論的には「現実の存在」は何よりも経験ではないでしょうか。すると、帰納(的な信念)には、基準との対応だけでなく、経験への的中もまた、問われることになる。」

(「第8章 どうして帰納は外れるのか?」より)

「いわゆる「帰納の問題」は伝統的に認識論の問題です。なぜなら、そこには一般化の正当性の問題があるからです。しかし、帰納(的な信念)には形而上学の問題もあるかもしれません。なぜなら、未来向きの帰納(的な信念)にだけは、経験への的中の問題があるからです。」

「そもそも世界は帰納的に存在するのかもしれない。だとすれば、未来(の世界)は、私たちに現れていないだけでなく、本当に無いのかもしれません。しかし、そもそも未来とは何なのでしょうか。どうして未来が「帰納の問題」になるのでしょうか。それは、未来が、無いかもしれませんが、有りうるからかもしれません。」

「そもそも未来とは何なのでしょうか。それは、もちろん時間ですが。一体どんな時間なのでしょうか。もし未来が現在になるのなら、それは今どこかにあるのでしょうか。そして、どこかから世界にやって来るのでしょうか。それとも、それはどこにもないのでしょうか。でも、もしどこにもないのなら、私たちは何もないところへ向かっているのでしょうか。どうして、何も無いのに、有るようになるのでしょうか。」

「未来とは、あらゆることがどうにでもなりうる時間です。未来に起こることは、(仮に今どこかにあるとしても、)まだ今は何一つ起こっていません。だから、もしかしたら、自然の歩みはこれから斉一的でなくなるかもしれません。たしかに、これまでは自然の歩みは斉一的であったかもしれません。あるいは、私たちは生まれる前に、仮にそれが斉一的でなかったとしても、それは論理的に(思考)可能であるにすぎません。なぜなら、過去はもう存在しないからです。そして、もう経験されないからです。」

「もしかしたら、未来には(?)未来さえ無いこともありうるのかもしれません。とはいえ、未来が無であることは「帰納の問題」ではありません。なぜなら、もし未来が無であるのなら、(当否も無いので、)帰納(的な信念)は未来への的中を問われないからです。そうではなくて、「帰納の問題」になるのは、むしろ未来がありうることです。なるほど、未来が有ることは、たしかに思い込みかもしれません。しかし、未来がありうることは、けっして思い込みではありません。たとえば、この次の未来には、もう何も無いかもしれませんが、その次の未来には、また何かありうるかもしれません。すると、帰納(的な信念)はまた未来への的中を問われるわけです。すなわち、未来が有りうるかぎり、「帰納の問題」は無くなりません。たしかに何も無い未来は有るかもしれません。というのは、未来はどのようにでもなりうるからです・しかし、そもそも、(有から)無に向かわなくては、帰納ではありません。なぜなら、(記憶と印象から)帰納されるのは、現前しない現実であるからです。すると、未来が無いことは、「帰納の問題」になるわけではありません。しかし、未来は(無)から有になりうるのです。すなわち、未来は有りえます。ですが。まさにこのことが「帰納の問題」になるのではないでしょうか。《とはいえ、そもそも未来はなぜ可能なのでしょうか?》」

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