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栗原康『死してなお踊れ 一遍上人伝』/柳宗悦『南無阿弥陀仏』/岡本勝人『仏教者 柳宗悦』/シュタイナー『霊的宇宙論 霊界のヒエラルキアと物質界におけるその反映』

☆mediopos3382  2024.2.20

浄土教の極北にある一遍は
その生誕の地・現松山市においても
正岡子規などにくらべ
観光としての側面も希薄なせいか
関心を持っている人はあまりいないようだ

ぼくが一遍に関心をもつようになったのも
松山市に長く住んでいるからというわけではなく
シュタイナーと柳宗悦が関係している

シュタイナーに関心をもちはじめ
現インターネットの前身ともいえるパソコン通信で
「シュタイナー研究室(神秘学遊戯団)」という
「会議室」をひらいていた1990年代の中頃

出張絡みで東京にでかけた際に
折良く高橋巌主催による読書会に参加できたとき
後に『シュタイナー 霊的宇宙論』として
翻訳刊行されているなかの
「四大存在」についての講義を聞いたのだが
そこで最初に語られていたのが「柳宗悦」だった

ぼくはそのときほとんどはじめてその存在を知り
その浄土信仰に関する視点と民藝運動
そして「美」についての洞察が
シュタイナーの示唆している「四大霊の解放」と
深く関係しているという
高橋巌氏の視点から深く影響を受けた

シュタイナーの霊的宇宙論においては
現在の物質状態の萌芽は土星紀における「熱」状態で
その後太陽紀・月紀・そして現在の地球紀へと至り
現在のような物質状態の地球となっているというが

人間がこの物質状態の地球において
生と死を繰り返していく際の重要な課題のひとつが
「四大霊の解放」である

神的存在たちは
固体や液体や気体を生じさせるために
「火の中に生きている四大存在たちを
地・水・風の中に閉じ込め」たのだが

私たち地上を生きる人間は
生死を繰り返していくなかで
四大存在と深く関わりながら
それらを「解放」するという重要な役割を担っている

「わたしたちは、風・水・地の中に
封じ込められている存在を、
私たちの精神作業を通して解放し、
本来の元素界へ連れ戻すこともできれば、
それらを変化させずに、
私たちの内部に閉じ込めておくこともできる」

わたしたちが「理念や概念や美的感情を通して、
外界の諸事物を受けとめようとすればする程」
「四大存在たちを救済し、解放する」ことができる
というのである

霊的な「供犠」(○○供養など)も
そうした四大霊の解放と深く関わっていたりもする

柳宗悦の美の経験に関する深い洞察には
禅と浄土教が深く関係しているが
それはおそらくその四大霊の解放と通底している

その浄土教
そしてその極北にある一遍の
南無阿弥陀仏という六字名号が
「仏が仏を念じている」とする洞察は
「美の法門」と「一如」であるという

一遍の和歌に
「となふれば仏もわれもなかりけり
      南無阿弥陀ぶつあみだ仏」
というのがあるが

「私」が名号を称えるというのでなく
「私」が本願を信するというのでもなく
六字名号である「仏」が「仏」を念じている

そして踊り念仏によって一心不乱に
「おのれの身を捨てさって、
ただ南無阿弥陀仏とひとつになる」

まさに「一如」である

一遍の教えは「時宗」とも称されるが
その「時」には
生と死を超えている
という意味が込められているようだ

踊り念仏は反時計まわりだというが
「成仏するということは、
逆むきの時間を生きるということ」であり
生から死へという直線的な時間ではなく
死からの時間つまりは
死者たちの解放という意味も込められている

生者だけではなく死者をも解放する踊り念仏・・・

わたしたちは一遍のような極北には近づきがたいが
少なくとも外界を即物的にとらえるのではなく
四大存在たちを畏敬と感謝のもとに
解放し得るような生を送ることで
まさに生と死を超える「一如」へと近づくことができる

■栗原康『死してなお踊れ/一遍上人伝』(河出文庫 2019/6)
■柳宗悦『南無阿弥陀仏:付心偈』 (岩波文庫 1986/1)
■岡本勝人『仏教者 柳宗悦 浄土信仰と美』(佼成出版社 2022/5)
■ルドルフ・シュタイナー(高橋巌訳)『シュタイナー 霊的宇宙論
 霊界のヒエラルキアと物質界におけるその反映』(春秋社 1998/12)

*(栗原康『死してなお踊れ/一遍上人伝』〜「第二章 いけ、いけ、往け、往け」より)

「もともと、一遍はこういっていた。われわれはすでにアミダによって救われている。仏になれる。でも、みんなそれに気づいていないから、すべてを捨てて念仏をとなえるんだと。だけど、すでにアミダによって救われているというのであれば、それはもう念仏がとなえられているということなんじゃないだろうか。ということは、われわれはなむあみだぶつと口にしたその瞬間に、もう浄土につれていかれているということになる。なむあみだぶつといっているこのわたしは、もはや人間ではない、仏である。仏が念仏をとなえているんだ。われわれは自分の力で、念仏をとなえて救われているんじゃない。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。そのことばで、その声で救われているのだ。六字名号は、われわれに手をさしのべてくれる仏の力であり、仏そのものなのだ。念仏は仏である。のちに、一遍はこのことを和歌にして、つぎのようにうたっている。

  となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀ぶつあみだ仏」

「いけ、いけ、往け、往け。オレも、おまえも、きみも、あなたも。一遍は、このことをつぎのようにいっている。

   おのれの身を捨てさって、ただ南無阿弥陀仏とひとつになることを一心不乱という。では、われわれが「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」とくりかえしてしまうのはなぜなのか。こういっておこう。念仏が念仏をもうすなり。」

*(栗原康『死してなお踊れ/一遍上人伝』〜「第三章 壊してさわいで、燃やしてあばれろ」より)

「たとえば、時衆はおどるとき、輪になって、グルグルグルグルと反時計まわりにまわっている。なんでそんなうごきをするのかというと、かれらが時間のながれを逆転させようとしているからだ。なにをいっているんですかとおもわれてしまうかもしれないが、これは空也だ、空也の影響である。もともと、一遍は空也のことを「わが先達なり」というほど尊敬していた。とうぜん踊り念仏についても、むちゃくちゃ影響をうけている。で、その空也の踊り念仏というのが、ちょっとおもしろいのだ。浄土教がどうこうとかそういうことじゃなくて、かんぜんに祈祷である。儀式なのだ。あらぶる死者たちの魂をしずめよう。物欲でも、出世欲でも、愛欲でもなんでもいい、うらめしや、うらめしや。現世に未練をのこして死んでいった者たちのために、いまはいのろうと。怨霊たちよ、気がしずまるまでおどりたまえ。ちええっ、ちええっ。おどらば、おどれ、鎮魂だ。

 反時計まわりという発想も、ここからでてくる。ふつう時間というのは、生から死へと直線的にながれるものだと考えられている。生きているひとは、みんな死ぬんだと。でも、ひとは死んだからといって、それだけで成仏できるわけではない。そうかんたんに、仏になれるとおもったら、おおまちがいである。ほんとうのところ、たいていの場合、ひとは死んでも現世に執着し、生きている者たちをしばりつけてしまう。怨霊はこわいよ。(・・・)じゃあということで、空也や一遍が考えたのが、まずは死者を供養し、現世への執着をたちきろうということだ。

 これは空也にしても、一遍にしてもおなじなのだが、踊り念仏では、みんなはげしく地面をけりとばし、ピョンピョンピョンピョンとびはねる。どうも、この足で地面をこすりあげるというのが重要らしい。死者を地下からひきあげるのだ。死者を地上によびさまし、生者とともにおどってさわぐ。そして、反時計まわりにうごいて、時間を逆転させるのだ。死から生へと、死から生へと、グルグルグルグルまわっていく。よみがえった死者たちが、時間軸ゼロ地点にひきもどされる。なんの執着もいだいていなかったまっさらな状態にまいもどり、そこからあらたな生をいきなおすのだ。もちろん、そうはいっても逆回りの生である。なんどもなんども、生きれば生きるほど執着がそぎおとされていく。捨てろ、捨てろ、捨てろ。おどればおどるほど。ひとはどんな執着にもとらわれずに生きていいんだ、どういう自由な生をいきなおしてもいいんだ、それをなんどでも、なんどでもくりかえていいんだということをかんじとる。そうやって、死者を成仏させ、生者にも疑似再生を体感させていく。よみがえりだ。

 ここまでくると、もともと死者の供養であった踊り念仏が、一遍の念仏思想とかさなってくるのがわかる。臨終のよろこびだ。時計まわりの時間を生きて、いちから財産をつみかさねていくんじゃなくて、生きれば生きるほど、どんどんどんどんスッカラカンになっていく。いつだって、ゼロからはじめるいまこのとき。はじめから言っちゃいけないことなんてない、はじめからやっちゃいけないこyとなんてない。ぜんぶ自由だ。一遍にとっては、この再生の解放感を心と体でかんじとるのが、念仏であった。だから、結果的にそうなっているだけかもしれないが、空也が踊り念仏でやろうとしていたことと、一遍が念仏でやろうとしていたことはかんぜんにおなじなのである。生きて、生きて。生きて、生きて、生きて、往きまくれ。成仏するということは、逆むきの時間を生きるということだ。」

*(柳宗悦『南無阿弥陀仏:付心偈』 〜「14 往生」より)

「波阿弥陀仏を離れて往生はなく、往生とはこの六字に即することである。それ故六字の中には人と弥陀の二つはない。あるものは「独一なる南無阿弥陀仏」である。六字とは、人間が人間を捨て尽くすその場所なのである。同じく阿弥陀が阿弥陀を賭しているその箇所なのである。かく考えれば、人間も阿弥陀も共に名号への捨艸に過ぎまい。名号あっての人間であり阿弥陀仏である。だから名号で人間と阿弥陀とは不二に入る。入不二往生である。だから名号に往生があるのである。」

「だから往生は解脱であり、成仏である。それは人の往生というより人なき往生である。私なき往生である。人が人を超える時が往生である。人のままの位でが往生が出来ぬ。もはや往生は生死に左右されぬ。不生不滅に入ることが往生の意味である。」

*(柳宗悦『南無阿弥陀仏:付心偈』 〜「15 行と信」より)

「法然上人は教える。口に名号を称えよ。汝の往生は契われていると。
 親鸞上人はいう。本願を信ぜよ。その時往生は決定されているのであると。
 一遍上人は更に説く。既に南無阿弥陀仏に往生が成就されているのである。人の如何に左右されているのではないと。
 人の往生を云々する限り、まだ自力を去ったとはいえまい。往生は南無阿弥陀仏おのれなりの力なのである。何ぞわが罪、わが愚、わが不信に六字が犯されよう、何ぞわが浄、わが知、わが信に六字が守られよう。名号はそれ自らの名号であって、信と不信とにも左右されない。罪と不罪とにも動揺されない。念仏宗はいつか時宗に達すべき歴史を孕んでいたのである。」

*(柳宗悦『南無阿弥陀仏:付心偈』 〜「16 自力と他力」より)

「誠に浄土の法門を背負わされた三人の上人が、各々異なる生活の様式を選ばれたことは、意味深く思われてならぬ。僧から居士に、更に聖へと変わることいに、やがて三宗の間における教学の推移をも見るではないか。彼らの相貌もまた、よくそれを語るように思う。穏順なる法然、強靱なる親鸞、鋭利なる一遍、この対蹠的な三者を持つことは、日本の浄土門をいや栄えしめたといわねばならぬ。
 万人の師表として立つべき僧が、「僧」としての生活を、どこまでも守ることは、最も正常な道といえよう。だが煩悩の凡夫は、僧にもなりきれぬ在家の身であるだけ、求道の一念を怠ってはならぬ。「非僧非俗」なる所以である。だが、六字の名号に一切を捧げんとならば、僧に止まることをも、居士に止まることをも共に捨て切るべきであろう。遊行の「聖(ひじり)」となる所以である。第一の道は法然によって示され、第二の道は親鸞によって選ばれ、第三の道は一遍によって現されたのである。」

*(岡本勝人『仏教者 柳宗悦 浄土信仰と美』〜「第三章 南無阿弥陀仏————柳宗悦の視線/7 僧と非僧と捨聖」より)

「柳宗悦の『南無阿弥陀仏』は、その中心である六字名号についてのわかりやすい、詳細を極める浄土教の紹介である。それは、また法然と親鸞と一遍についての同一と差異の紹介の書とも言えるだろう。
 本書の実質的な「まとめ」こそ、「仮名法語」の前の章の「僧と非僧と捨聖」であると考える。
 柳は、これまで、しばしば浄土教の三者を比較する際に、通時的な思索の発展を念頭に置きながらも、あくまでも三者の思索と行動を共時的な存在としての浄土教あるいは他力本願の枠にくくり、そのなかでの差異性として、語りつづけてきた。
 ここでは、言うまでもなく、「僧」とは法然(浄土宗)であり、「非僧」とは親鸞(真宗)であり。「捨聖」とは一遍(時宗)のことである。」

「柳宗悦の浄土教の三人についての詩文は、言葉そのものが、幾層もの差異を反復する詩文を連ねることで統合的に成立している。

  法然上人はいう、人が仏を念ずれば、仏もまた人を念じ給うと。
  親鸞聖人はいう、人が仏を念ぜずとも、仏は人を念じ給うと。
  しかるに一遍上人はいう、それは仏が仏を念じているのであると。
  (『南無阿弥陀仏』「廻向不廻向」)」

*(岡本勝人『仏教者 柳宗悦 浄土信仰と美』〜「第四章 「仏教美学」四部作/9 最後の仏教美論「法と美」」より)

「柳は禅と浄土教に寄り添いながら、「美」と「法」は「一如」であるとし、美の経験には、民藝運動における楽茶碗と井戸茶碗の対比から、「茶の改革」を論じた。しかし、仏教と「モノ」それ自身を統合する場所論的な言語空間には、形而上的かつ内在的なアーラヤ識の地平に、自他両問が一如となる不二の世界が見えてくるのだ。」

*(シュタイナー『霊的宇宙論』〜「第2講 四大存在」より)

・「四大存在の封じ込め」

「神的存在たちは、どのようにしてこの地上に、固体や液体や気体を生じさせることができたのでしょうか。神的存在たちは、火の中に生きている四大存在たちを地・水・風の中に閉じ込めたのです。四大存在たちは、神的な創造者たちの使者なのです。この使者は、はじめは火の中にいました。火の中で、いわば幸せに暮らしていました。ところが今は、呪われ、封じ込められて、生きています。ですから私たちは周囲を眺め、次のように思わなければなりません。————「周囲のすべては、四大存在のおかげでここに存在している。四大存在たちは、火から降りてこなければならなかった。そして今、事物の中に封じ込められている。」

・「四大存在の救済」

「私たちは人間として、この四大存在たちに、一体何をしてあげることができるのでしょうか、これは聖仙たちにとっても、重要な問いでした。封じ込められた存在を救済するために、私たちは何をすることができるのでしょうか。(・・・)
 私たちの行うすべては、ただちに霊界にもその作用を及ぼします。

(・・・)

 知覚活動を行なうときはいつでも、一群の四大存在たちが、周囲から皆さんの中へ入ってきます。考えてみてください。周囲の事物を眺める誰かが、事物の霊について自分の魂の中に何も感じとろうとしなかったら、どうなるでしょうか。自分にかまけたり、安易な態度をとったりして、思考も感情も働かせずに、いわば単なる傍観者として生きているとしたら、どうなるでしょうか。そのときにも、四大存在たちがその人の中へ入っていきます。しかしその人の中で、ただ外から中に入るという宇宙過程を辿る以上のことをすることはできないのです。けれども、誰かが外界の印象を深く心に受けとめ、宇宙の根底に働いている霊的存在たちに思いをいたすとしましょう。一片の金属を、ただ眺めるだけではなく、その姿について考え、その美を感じ、印象を深めるとします。その人は何をしているのでしょうか。

 その人は、そうすることで、外界から自分の中へ流れ込んでくる四大存在を救済しているのです。封じ込められた状態から四大存在を解放して、かつての状態に送り返すのです。そのようにわたしたちは、風・水・地の中に封じ込められている存在を、私たちの精神作業を通して解放し、本来の元素界へ連れ戻すこともできれば、それらを変化させずに、私たちの内部に閉じ込めておくこともできるのです。人はこの世の生活を通して、四大存在たちを、外界から自分の中へ流れ込ませます。事物をただ眺めるだけで、この霊たちを、自分の中に流れ込ませます。しかしそれだけでは、この霊たちは変化できません。理念や概念や美的感情を通して、外界の諸事物を受けとめようとすればする程、人はこの霊的な四大存在たちを救済し、解放するのです。

 それでは、事物から人間の中へ入った四大存在たちはどうなるのでしょうか。はじめは人間の中にいます。救済された存在たちも、はじめは人間の中に留まっていなければなりません。しかしそれは人間が死に到るまでのことです。

 人間が死の門を通ると、死体の中に留まり、高次の元素界に帰っていけない四大存在たちと、死者の霊魂によって以前の元素界に連れ戻された四大存在たちとの間に、区別が生じます。人間によって変化させられなかった四大存在たちは、事物から人間の中に入ったあとも何も得るところがありませんでした。しかし別の四大存在たちは、人間の死とともに、ふたたびもとの世界に帰ることができました。この四大存在たちにとって、人間の生活は通過点だったのです。

 そして、人間が霊界から、また地上に生まれてくるとき、かつてその人が解放しなかった四大存在のすべても、その人の転生とともに、ふたたぶ物質世界にもどってきます。一方。解放された四大存在たちは、その人がふたたびこの世に生を受けても、共に地上世界に降りてこないで、もとの元素界に留まります。」

・「供犠の霊的意味」

「四大存在の運命については、次のように言うことができます。————「人は、内部に発達させた叡智を通して、死後、四大存在を解放する。物質の感覚的仮象にしがみついている人は、四大存在を自分のもとに留めたまま、何度でも転生しつづける。そして四大存在も自分と共に、地上に生まれてくるようにしむける」

・「四大存在と人間の関係」

「調和した世界感情をもった、明朗な心の持ち主は、無数のこのような四大存在を解放しつづけます。
 調和した世界感情、世界についての内的な充足感は、霊的な四大存在の解放者なのです。不平不満の持ち主は、四大存在を拘束します。」

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