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西平 直 『西田幾多郎と双面性 (東洋哲学序説) 』

☆mediopos-2493  2021.9.13

論理はどこから生まれるのだろう

西田幾多郎は「論理」が生まれてくる
「その生成の現場を求めた」
論理はいわば「思考の形式」ともいえるが
その論理が生まれてくる「実在」へと向かったのだ

その出発点が『善の研究』における「純粋経験」であり
その「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明」
しようとするところからその哲学的営為は始まったといえる
つまり論理は「実在の自己表現の形式」だというのである

西洋的論理の典型は対象論理である
論理の一面としてその対象論理は欠かすことができない
しかし対象論理の「対象」には自己が含まれない
「対象論理で考えている限り、それを考えている
自己(働く自己)が抜け落ちてしまう」ことになるのだ

ゆえにその論理とは異なる
(働く自己を含んだ)「論理」が必要になる
対象論理は具体的な実在の抽象化だから
その抽象的論理から具体的論理をとらえることはできない

そのために西田幾多郎は生涯にわたって
自己をも含めた純粋経験的な論理を求めていき
その論理を次のようなさまざまな名で呼んだ

「場所的論理」「絶対矛盾的自己同一」
「絶対弁証法」「東洋的世界観の論理」
「現象即実在」「絶対即相対」
「一即多・多即一」「内在即超越・超越即内在」

「即」という表現には仏教的な背景があるが
そこには鈴木大拙とも関係の深い
華厳哲学や『大乗起信論』が背景にあるようだ
(西田幾多郎自身はそれを明らかにはしていないそうだが)

本書の著者はそれらの論理を
井筒俊彦が『大乗起信論』を読み解く際に用いた
「双面性」という言葉で照らし出そうとした
(本書は『東洋哲学序説 井筒俊彦と二重の見』姉妹編)

個物と一般者
一と多
現象と実在
これらの二項は
ほんらい分けることができないのだが
同一のものとして一体化することもできない

そうした矛盾した「双面的事態」そのものを
西田幾多郎は「論理」化しようとしたのだが
さらにいえばその「論理」が生まれてくる
「実在」をこそとらえようとしたのだろう

西田幾多郎は哲学において
鈴木大拙は仏教において
井筒俊彦はそうした背景も含めた
「東洋哲学」の壮大な試みとして

ちなみに昨日ふれた量子力学の「解釈」の問題も
この問題と重ねてみることもできるかもしれない
重要なのは「答え」ではなく
その「世界観」そのものだという意味でも

■西平 直
 『西田幾多郎と双面性 (東洋哲学序説) 』
 (ぷねうま舎 2021.8)

「西田は「論理」を求めた。正確には、論理が「そこ」から生じる、その生成の現場を求めた。」
「論理は「実在の自己表現の形式」である。実在の外に、思考の形式として論理があるのではなくて、実在の自己表現の形式が、論理である。」

「自己は対象化されない。対象論理で考えている限り、それを考えている自己(働く自己)が抜け落ちてしまう。対象論理の「対象」には自己が含まれない。
 そこで何らか異なる(働く自己を含んだ)「論理」が必要になる。「対象化」する論理とは異なる、むしろそれを包み込むような立体的出来事。あるいは、前者を「表象」と理解してみれば、後者は「表現するものと表現されるものとが分かれていない(知るものと知られるものとが分かれていない)」出来事である。
 しかし対象論理を軽視するのではない。「論理は一面にどこまでも対象論理的でなければならない。然らざれば、論理ではない」。
 ところが、対象論理は、具体的な実在から抽象されて成り立つ。ということは、具体的な実在の方が豊かである。そこで、「具体的論理はその否定的契機として抽象的論理を含まねばならないが、抽象的論理の立場から具体的論理的に考へることはできない」。
 必要なのは、「実在から論理を見る」ことである。既に出来上がっている対象論理から実在を考えるのではない。実在から出発して、実在の中から論理が生成する出来事を捉える。「実在の論理化」を考えようとする。
 それが「具体的論理」であったことになる。自らがそこに含まれる歴史的世界を論理化してゆく形式。
(・・・)
 私たちが実在を、実在の在り方に即して把握しようとするところに、具体的論理が成り立つ。それは世界が自己を顕すということである。あるいは、「自覚する」ということである。「歴史的現実が現実自身を自覚する時、論理と云ふものが出て来るのである」。
 その時、世界は、私たちの意識を通して、自己を顕す。「物が物自身を証明する」ともいう。」

「東洋論理は対象論理を含み込んでいる。対象論理は東洋論理の一側面である。それは、形式論理が「具体的論理の抽象的形式」であったことと、同型である。
 では、東洋論理はどのように語られてきたか。
 「私は仏教哲学にはそれ自身に独特の見方考へ方があり、それを矛盾的自己同一的な場所の論理、心の論理を考へたいと思ふ。心即是仏仏即心と云ふことは、心を存じて心から世界を考へることではなく、世界から心を考へることでなければならない。それは世界を意識的に見ると云ふことではない。龍樹の中論に於て既に弁証法的なるものを思はせるのであるが、然もそれは西洋哲学の立場に於ての弁証法とは、根底に於て異なつた所があるのではないかと思ふ。それが支那に於て、天台の一念三千の世界観となり、華厳の事事無礙の世界観に発展した。華厳に於ては、一即一切一切即一と云ふ」。
 西田は、そうした仏教哲学の中に、自らの追求した「論理」が生きていると語った。そして自らの「論理」を多様な仕方で呼んだ。「場所的論理」、「絶対矛盾的自己同一」、「絶対弁証法」、「東洋的世界観の論理」。あるいは「即」という言葉を用いる場合は、「現象即実在」、「絶対即相対」、「一即多・多即一」、「内在即超越・超越即内在」。
 本書は、そうした述語をすべて「双面性」という言葉の内に包み込む。「双面性」は西田の用語ではない。井筒俊彦が『大乗起信論』を読み解く際に用いた言葉である。起信論は多様に異なる双面性が多層的に入り組んだ構造を持っていた。
 本書は、華厳哲学や『大乗起信論』が語る論理も、西田が追求した「東洋論理」も、すべて含めて「双面性」と呼ぶ。」

「晩年の西田が「論理」を重視したことは知られている。その「絶筆」は「私の論理について」と題され、「私の論理」は「学界からは理解せられない、否一顧も与へられないと云つてよい」、あるいは、「人は私の論理と云ふのは論理ではないと云ふ」と嘆いた上で、その最後は次のように終わる(中断されたまま途切れてしまう)。

  我々は是に於て論理とは如何なるものかを考へて見なければならない。論理と云ふのは我々の思惟の方式である。論理とは如何なるものなるかを明らかにするには我々の思惟の本質からでなければならない。

 「論理」を「思惟の形式」から考え直す。むろんその先に西田は、「現実の世界の論理(歴史的形成作用)」を考えていた。「具体的論理は、現実の世界の自己表現の形式でなければならない。形式論理とはその抽象的形式にすぎない」(「知識の客観性について」)。
 しかし、その「具体的論理」とは異なる精神があるのだが、しかし東洋ではそれが「論理」としては展開されてこなかった。「我々は先ず西洋論理を論理として之によつて論理的思惟を形成せなければならない。併しそれと共に。私はそれが単に論理そのものと云ふのではなく、西洋文化の精神を根底としたものたることを思はざるを得ない」(「日本文化の問題」)。
 つまり、西洋の論理に即して「論理的思惟」を形成しつつ、同時にその論理の相対性を批判的に検討する。その「論理」がいかに西洋の精神に特有の限定を受けているか。そこで(・・・)両面作戦が必要となる。一方では、西洋の思惟の土台からその論理の限界を見極め、他方では、東洋の思惟の中からその「思惟の本質」に即した論理を導き出し、この二つのベクトルの交点に自らの論理を定式化しようとする。」

《目次》
序 章 「東洋的世界観の論理」
  Ⅰ 西田哲学と「事事無礙」──井筒俊彦の華厳哲学理解を介して
第一節 後期西田哲学と華厳思想
第二節 華厳の「事事無礙」──井筒俊彦の華厳哲学理解
 第三節 後期西田の「個物E」「一般者A」「媒介者M」
──図式的説明を手がかりとして
  第四節 弁証法的一般者としての世界
 ──後期西田の「個物」と華厳の「同体の論理」
Ⅱ 西田哲学と『大乗起信論』││井筒俊彦『意識の形而上学』を介して
第一章 「起信論一巻読了」の意味──論文「実在に就いて」に至るまで
第二章 明治期哲学と論文「実在に就いて」──『起信論』との関係
第三章 『起信論』と「双面性(非一非異)」
──井筒俊彦『意識の形而上学』を手がかりとして
第四章 「絶対即相対」の論理と『起信論』
      ──「離言真如(語り得ぬこと)」と「依言真如(語り得ること)」、および「逆対応」

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