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アーシュラ・K・ル=グウィン『私と言葉たち』

☆mediopos-3009  2023.2.12

本書『私と言葉たち』は
二〇一八年に亡くなったアーシュラ・K・ル=グウィンの
二〇〇〇年から二〇一六年までの間に書かれた
エッセイ・書評・一九九四年の一週間の日記が収められ
二〇一六年に出版されたもの

原題は「Words Are My Matter」
このmy matterは少なくとも三通り
私にとって重要な問題・私の扱う素材
そして私自身の本質といった意味にとれるそうだ

少しまえに翻訳出版された
『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』の
原著よりも一年余り前に出版されていたとのこと

さまざまな「my matter」が収められた本書のうち
「前書き」そして
〈ブルーリバーの書き手の集い〉でのスピーチをもとに
二〇一四年に手が加えられた
「自らを思考の外へいざなうこと」から

ル=グウィンは
哲学や論理学や数学はまったく理解しがたく
「抽象的な言葉で表される概念を受けつけない」という
ノンフィクションは詩や物語のようには楽しめない
ノンフィクションでも読むのは「物語のように語られるもの」
しかも「文章の質が良い」ことが重要だという

ノンフィクションよりも詩や物語をとあえて言挙げしているのは
リアル(現実)とされているものよりも
自由な想像力をだいじにしたいという表明でもあるだろう
リアル(現実)とされているものに囚われすぎて
生きた物語を失くしてしまいかねないだろうからだ
現代ではたとえば抽象的な情報や数字などが
リアル(現実)であるかのように思いこまされていたりもする
「文章の質が良い」という条件もそのことに関わっている

このことが「前書き」として書かれているので
これは本書に収められたものすべてに関わることでもあるだろう

ぼく個人としていえば
ル=グウィンよりも節操がなく
哲学や論理学や数学も
詩や文学などの区別はあまりなく
それらが「読める」ときは
それらをある意味ですべて「物語」として読んでいるところがある

そもそもこの世界・宇宙そのものが「物語」であって
そうである以上哲学や論理学や数学もまた
同じ世界の「物語」のひとつではないかと思っていたりするからだ

とはいえル=グウィン同様
それらが「読める」ものであるのは
「文章の質が良い」ことが前提となる
詩や物語もそうでなければ
晦渋を自己目的としたかのような哲学や論理学や数学と変わらない

続いて「自らを思考の外へいざなうこと」では
ル=グウィンはみずからの書いた物語を
メッセージとして受けとられることを嫌っている
「私が物語を書き、詩を書く。それだけだ」という

「その作品が運ぶメッセージに、言い換えると、
情報や安心を提供し、知恵を分け与え、
希望をもたらすことにあるのだと考えたら、
物語も詩も書けないだろう」

そして「それらは、作品の自然な成長に干渉し、
芸術の活力のもっとも深い源である謎から切り離すだろう」
という至極納得のいく言葉を紡いでいる
「芸術はメッセージを超えるものを明らかにする。」
「私は書いている物語の中にそれらがあるのを見出すのだ」

芸術が芸術であり得るのは
それがメッセージを伝える手段ではないときであって
メッセージを伝えるものになるとき
それはただのお説教の道具に堕してしまうだろう

芸術(作品)はよく政治や経済の道具にもなるが
そのとき芸術(作品)はいってみれば
魂が抜け落ちているゾンビと化しているともいえる

さて「前書き」に還るが
せっかく「言葉」を享受するのだとしたら
やはり「文章の質が良い」ことを最重要の基準としたい
「魂」を喜ばせそのだいじな養分となり得るように

■アーシュラ・K・ル=グウィン(谷垣暁美訳)
 『私と言葉たち』(河出書房新社 2022/12)

(「前書き」より)

「ノンフィクションを読んで、詩や物語を読むときと同じくらい楽しめることは、私にとってめったにない。よく書けたエッセイに感心することはあっても、考えよりは語りを追っていきたいほうだ。そして、その考えが抽象的であるほど、私には理解しがたい。哲学は、たとえ話としてしか、私の頭に宿らない。そして、論理学は私の頭には、一歩も入ってこない。とはいえ、ひとつの言語の論理だと思われる統語論なら、私はよく理解している。そういうわけなので、自分の思考におけるこの限界は、数学がとんでもなく苦手なことや、チェスはおろか、チェッカーもできないことに関係していると思う。たぶん、音楽の調が理解できないことにも、私の頭の中にファイアーウォールがあって、言葉ではなく、数字やグラフで表現される概念や、「罪」や「創造性」といった抽象的な言葉で表される概念を受けつけないようだ。私は単純に、そういうものが理解できない。そして理解できないのは退屈なことだ。

 だから、私が読むノンフィクションは、大体、物語のように語られるものだ————伝記や歴史、紀行、そして科学のうちの記述的な側面————地理学、博物誌、人類学、心理学などだ。具体的なほど良い。そして、物語的であることに加えて、文章の質が良いことが、私にとって何よりも重要だ。正しいかどうかは別として、切れ味の鈍い不器用な文体は、思考が不十分で不完全であることの証拠だと信じている。ダーウィンの思考の正確さ、視野の広さ、質の高さは、彼の文章の明快さ、力強さ、活力に、すなわち、その美しさに如実に表れていると、わたしは思う。」

(「自らを思考の外へいざなうこと」より)

「子どもたちは学校で、目的のための手段として書くことを教えられる。実際、ほとんどの書き物は、目的を果たすための手段である。ラブレター、すべての種類の情報、商業通信文、取扱説明書。みんなそうだ。多くの書き物が体現しているもの————それはメッセージだ。

 そういうわけで、子どもたちは私に尋ねる。「物語を書くときは、メッセージを先に決めるんですか? それとも、物語を先に決めて、その中にメッセージを入れるんですか?」

 いいえ、と私は答える。そういうことはしない。私はメッセージをどうこうすることはしない。私が物語を書き、詩を書く。それだけだ。その物語や詩があなたにとって意味すること————そのメッセージ————は、それが私にとって意味することと、まったく違うかもしれない。

 そう言われた子どもたちは、がっかりすることが多い。ショックを受けさえする。私のことを無責任だと思ったに違いない。子どもたちの先生たちがどう思っていることを、私は承知している。

 そういう人たちが正しいのかもしれない。文学も含めて、すべての書き物は、それ自体が目的ではなく、それ自体以外の目標に到達するための手段なのかもしれない。だが、私自身について言うと、自分の作品の真価、中心的な価値が、その作品が運ぶメッセージに、言い換えると、情報や安心を提供し、知恵を分け与え、希望をもたらすことにあるのだと考えたら、物語も詩も書けないだろう。それらのゴールは、いかに偉大で高尚であるにしても、作品の軸を決定的に制限するだろうから。それらは、作品の自然な成長に干渉し、芸術の活力のもっとも深い源である謎から切り離すだろう。

 詩でも物語でも、ある問題に取り組むことや特定の結果を得ることを意図して書かれた作品は、どんなに強力で有益なものであれ、それ自身の第一の義務と特権、それがそれ自身に対して負っている責任を放棄している。それの第一の仕事は、自分を正しい真の姿にしてくれる言葉を見つけることなのに。その姿こそ、その作品のもつ美であり、真実である。」

「芸術はメッセージを超えるものを明らかにする。物語や詩は、書いている最中の私に対して、さまざまな真実を明らかにしてくれるかもしれない。私がそれらをそこに置くのではない。私は書いている物語の中にそれらがあるのを見出すのだ。」

「真実は隠されていなくてはならないのか? あなたのつくり壺は空っぽでなくてはならないのか? どうして私たちのために、良いものを詰めこんではくれないのか?

 うーん。まず、第一に、まったく実用的な理由を挙げよう。「斜めに語る」のは、あからさまに教訓を垂れるより、ずっとうまく行くから、というのがそれだ。より効果的なのだ。

 だが、道義的な理由もある。私の読者が私の壺から取り出すものは、その人が必要とするものだ。そしてその人のニーズは、私よりも本人のほうが、よくわかっている。私のもっている知恵は。どうやって壺をつくるか知っているということだけだ。お説教を垂れる資格などない。

 どんなにへりくだった気持ちでするとしても、お説教というのは、相手を侵害する行為なのだ。「大いなる道はとても単純だ。意見を手放しさえすればいい」とライオスとは言う。だが、私の中には説教師がいて、私の素敵な壺に、意見や信念や、「真実」を詰めこみたがっている。そして私の主題が、人と自然の関係のような。道徳的な意味をはらんだものである場合、その「内なる説教師」は人々の誤りを正し、どのように考えるべきか。何をするべきか、教えたがる。そう、「主よ」と呼びかけ、人々に「アーメン」と唱和させる。そういうふうにやりたがる。

 私が「説教師」よりも信頼を置いているのは、私の中の「内なる教師」だ。こちらは自分の言うことを理解してほしいと願っているので、繊細で謙虚だ。相反する意見を抱え込んでいるが、消化不良は起こさない。「あんたに理解されなくたって、屁とも思わないわ」とつぶやく。傲慢な芸術家の自己と「さあ今から言うことをよく聴きなさい」と叫ぶ説教師の自己との間を、「教師」はとりもつことができる。真実を押しつけることはせず、そっと提供する。」

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