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レザー・アスラン『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』/井筒俊彦『スーフィズムと老荘思想 上』/山本直輝『スーフィズムとは何か』/ダリル・アンカ『BASHAR(バシャール)2017』

☆mediopos3201  2023.8.23

『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』の著者
レザー・アスランは本書で
〈神〉をめぐる人間の心の世界の歴史を辿っているが

それは
「〈神〉を、超能力を持った老人のように思っていた」
子ども時代から
「〈神〉を完全な人間と想定する敬虔なキリスト教徒」へ
そして「純粋な一神教を信奉するムスリムの宗教学者」へ
さらに「造物主である〈神〉と
その被造物のあいだの境界を取り払うしかないと考える
イスラーム神秘主義者(スーフィー)」にたどり着く・・・
という著者の信仰の旅路をそのまま反映している」という

著者の示唆しているスーフィーは
イブン・アル・アラビーの「存在一性論」にあるように
(井筒俊彦の『スーフィズムと老荘思想 上』に詳しい)

「もし〈神〉が一なる存在であるなら、
〈神〉はあらゆるものに遍在しているはずである」とし
「造物主と被造物は、まったく同じもので」
「それゆえ、〈神〉は、その本質において、
すべての存在の総和である」ということを
知識と修行の両面から探求する者であるといえる

そのように神的存在をとらえる概念は
「〈神〉はすべて」あるいは
「すべては〈神〉」を意味する
「汎神論」と呼ばれるもので
「〈神〉の必然的存在以外には
何一つ存在しないと信じること」にほかならない

その基本認識は姿は違っても
原初的なアニミズムから
古代メソポタミア人や原初のエジプト人の信仰
ギリシアの哲学者たちが言う唯一神
ヒンドゥー教や仏教
ユダヤ神秘主義やキリスト教神秘主義
さらにはスピノザの哲学などにも見出すことができる

すべてが〈神〉であるならば
〈私〉も〈神〉にほかならないのだが
そこには存在や気づきのさまざまな階梯があって
それぞれの境地に至るために
あるいはそのことを身心ともに気づくために
スーフィーは修行を積まなければならない

すべては〈神〉であるとしても
その顕現の仕方は
その気づきによって異なっているからである

さて個人的な関心でいえば
比較的小さな頃から
宇宙(世界)とはいったいどんな存在か
またそのなかで自分がどのような
存在として位置づけられ得るのか
そうしたことを考え続けてきているともいえるが

宇宙観としては著者同様
基本的には汎神論的であり
そうしたなかでたとえば
シュタイナーの示唆している霊的位階のように
存在の階梯が存在しているというイメージがある

存在に階梯があるということは
存在が顕現するためには
当初「他」の存在しない
つまりはその宇宙の「外」が存在しない
「一なるありよう」から
「他」が顕現する二元論的なものが顕れ
そこから展開されてきたということを意味する
そしてそのなかに
「私」という魂(ソウル)も顕現している

そうした様態がわかりやすく説明されている
バシャールによるQ&Aがあるので紹介してみている
(図参照:世界の構造/オーバーソウル構造とソウルの関係)

「ザ・ワン」という自意識のない永遠があり
「オール・ザット・イズ」という自意識のある永遠があり
そこに「反映」されている
さまざまな「オーバーソウル」があり
そのなかに個別化した「ソウル」がある

こうした宇宙論は
流出論的にとらえられやすいが
それは時間的なプロセスではないので過去−現在ではなく
すべてはつねに今ここで顕現している
あるいはそういう意識とともにある

そして今ここにいる「私」という「ソウル」は
さまざまな「オーバーソウル」との関係のなかで
みずからを導いているという物語を生きている・・・

しかしあらためて
こうして「宇宙」がそして「私」が
なぜ「存在」するようになったのか
それが不思議だ
いうまでもなくそれこそが永遠の謎なのだが

■レザー・アスラン(白須英子訳)
 『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』(文藝春秋 2020/2)
■井筒俊彦(仁子寿晴訳)
 『スーフィズムと老荘思想 上』(慶應義塾大学出版会 2019/5)
■山本直輝『スーフィズムとは何か/イスラーム神秘主義の修行道』
 (集英社新書 集英社 2023/8)
■ダリル・アンカ/喜多見龍一『BASHAR(バシャール)2017』
 (ヴォイス 2017/11)

(レザー・アスラン『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』〜「第9章 すべてに遍在する〈神〉」より)

「イスラームではタウヒードと呼ばれる複雑な神学的着想にもとづく唯一絶対神観という概念そのものへのリスクを伴う賭けがあった。アラビア語で「一(いつ)にすること」を意味するタウヒードとは、〈神〉の特異性の容認と言うよりも、〈神〉の本質を説明する言葉である。それは〈神〉は一人しかいないという意味ではない。〈神〉は形においても、本性においても一なるものを意味している。」

「もし〈神〉が一なる存在であるなら、〈神〉はあらゆるものに遍在しているはずである。
 この概念を表す言葉であるワフダト・アル・ウジュード、もしくは「存在一性論」という造語の作り主は、史上最高の哲学歴知性の持ち主であるムヒッディーン・イブン・アル・アラビー(一一六五〜一二四〇)だった。スーフィーの心的存在の概念の確固とした哲学的基盤を提供したいと思っていたイブン・アル・アラビーは、タウヒードの教義に見られる根本的な欠陥への取り組みに着手した。もし初めに、〈神〉のほかに何もなかったのなら、〈神〉は自分自身からそれを造り出さない限り、どううやって何かを造り出すことができたのか? さらに、もし〈神〉が自分自身から被造物を造り出したとすれば、〈神〉を造物主と被造物に分けることになり、一なる〈神〉という概念にそぐわないのではないか?
(・・・)
 森羅万象の中に存在するすべてのものは、〈神〉と共存という形でしか存在しないのならば、少なくとも、造物主と被造物は、まったく同じもので、永遠にして、区別できない、分離不可能な本質を共有しているはずである。それゆえ、〈神〉は、その本質において、すべての存在の総和であるはずだ。
(・・・)
 〈神〉は存在するすべてのものに遍在しているのだ。」

(レザー・アスラン『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』〜「終章 万物の創造を司る「一なるもの」」より)

「私たちはむしろ、(〝〈神〉の〟)外観ではなく、本質において〈神〉のこの世の化身なのである。
(・・・)
宗教学者としても、また一人の信仰者としても、ずいぶん長い、明らかに遠回りの心の旅路をたどってきた私は、ある時、そうした悟りの境地にゆきついた。実際、私が本書の中で大筋を述べてきた人間の心の世界の歴史は、〈神〉を、超能力を持った老人のように思っていた私の子ども時代から、〈神〉を完全な人間と想定する敬虔なキリスト教徒になり、やがてそれも否定して、純粋な一神教を信奉するムスリムの宗教学者に転向したあと、唯一無二、永遠で、不可分の〈神〉という判断の正当性を信じる唯一の手段は、造物主である〈神〉とその被造物のあいだの境界を取り払うしかないと考えるイスラーム神秘主義者(スーフィー)にたどり着くまでの私の信仰の旅路をそのまま反映している。」

「神的存在のこうした概念を、現代語では「〈神〉はすべて」あるいは「すべては〈神〉」を意味する「汎神論(パンセイズム)」と呼んでいる。この単純きわまりない表現形式でいう汎神論とは、〈神〉と森羅万象はまったく同一のものである————したがって〈神〉の必然的存在以外には何一つ存在しないと信じることである。」

「これは本来、有史以前の私たちの祖先が信じていたものである。原初的なアニミズムは、すべてのもの————生きているものであろうとなかろうと————じゃ、一つの重要な本質、言うなれば、一つの霊魂を共有しているという信仰が根拠になっている。古代メソポタミア人に自然界を構成する基本要素の神格化を促したのも同じ思考だった。彼らがそれらの構成要素を個々別々の神々に変形し始めたのはずっとあとのことだ。原初のエジプト人の信仰の中心にも、神々と人間の両方に顕れる神的存在の威力への信仰があった。ギリシアの哲学者たちが言う〝唯一神〟も、すべての被造物を司る唯一の統合された原理を意味していた。こうした信仰体系のすべてを、万物の総和としての汎神論的神観の異なった表現と見做すことができる。
 私はスーフィズムを通して汎神論にたどり着いた。だが、ほとんどどの宗教的伝承においても同じ信仰があることが見受けられる。汎神論は、ヒンドゥー教にも、『ヴェーダ』〔バラモン教聖典〕や『ウパニシャッド』〔サンスクリット語で書かれたヴェーダの関連書物〕の双方にも見られるが、とくにヴェーダーンタ学派の伝承では、ブラフマン(究極の不変の現実)のみが絶対的で、それ以外のものすべてはまぼろしであるとされる。「〈神〉とは、存在するすべてのものを指す」。仏教の教義においても、世界とそこにあるすべてのものは仏陀のさまざまな様態にすぎず、すべての現象は一つの現実の中に実在する。偉大な禅僧道元(一二〇〇〜一二五三)によれば、「現存するものすべては仏陀のありのままの姿である」。それは道教にも深く定着しており、存在するすべてのものの根底には神的存在の原理が提示されているという。(・・・)
 ユダヤ教の伝統に基づく神秘主義思想やツィムツームもしくは〝神的存在の縮小〟————〈神〉は、有限な世界が存在する空間を準備するために、みずから無限の本質を「縮小」させたと信じることによっても、汎心論の論理にたどり着ける。神を人格化した典型的な宗教であるキリスト教でさえ、マイスター・エックハルトのような神秘主義思想家の著書の中に。「神は在(い)ます。すべての存在は彼から直接生まれたものです」という汎神論的傾向を見出すことができる。
 汎神論に行き着くには宗教を通す必要はまったくない。むしろ哲学を通してのほうが早道である・事実、西欧社会に汎神論を広めたとされる合理主義哲学者ベネディクトゥス・スピノザ(一六三二〜一六七七)は、無限の特質を表す森羅万象の中に唯一の〝実体〟があるとすれば。その実体は〈神〉と呼ばれようが。「自然」と呼ばれようが、それは唯一、不可分の現実として存在しているはずだという。」

「私や数えきれないほど多くのほかの人たちが、この「一なるもの」を〈神〉と呼ぶ。だが、私の信じる〈神〉は個別化された〈神〉ではない。それは非人格化された〈神〉である。物質的な形がなく、名もなく、本質も、人格もない、純粋な存在である〈神〉だ。」

「私が〈神〉を知る唯一の方法は、私が本当に知ることができる唯一のもの、自分自身を拠り所とするほかないと理解している。イブン・アル・アラビーが言っているように、「自分の魂を知る者は自分の創造主を知る」からだ。」

(井筒俊彦(仁子寿晴訳)『スーフィズムと老荘思想 上』〜「第十五章 個としての完全人間」より)

「己れの「こころ」(galb)を知る、真の「知者」は、己れ自身の内面の眼で、瞬間ごとにおびいあたしい様態と状態へと、いかに己れがつねに変化しているか、いかに己れを変化させているか(galbあるいはtaquallub)を見る。真の「知者」は同時に、彼の「こころ」が絶対者の自己顕現にすぎないこよを、絶対者の「彼として在ること」にすぎないことを知る。彼の「こころ」が、内省によってその構造を知ることのできる全世界で唯一のものであるのは論ずるまでもない。だが、他のすべてのものが彼の「こころ」と全く同じ構造をもつことも知る。こうして、己れ自身の「こころ」を内側から知るひとが、世界のあらゆる可能な携帯を帯びて瞬間ごとに己れを変化せしめる絶対者を知るのである。
 そうした「知者」の帰属する範疇は、人間を計る物差しを当てれば、もっとも高い次元である。」

(井筒俊彦(仁子寿晴訳)『スーフィズムと老荘思想 上』〜「第十七章 完全人間のもつ不思議な力」より)

「完全人間のもっとも理想的な状態は、精神的平穏、計り知れない深みでの静寂である。己れ自身と全てのものを神に委ねる受け身の態度で満足する静かなひとである。完全人間とは己れ自身のうちに驚くほどの精神的力をもち、〈在る〉について最高度の知で彩られながらも、静かで深い海という印象を与えるひとである。完全人間がそうしたひととして在るのは、絶対者の全ての〈名〉と〈属性〉を包括し。実現させしめる宇宙論的完全人間の、具体的個体の姿を帯びたもっとも完全な像だからである。」

(山本直輝『スーフィズムとは何か/イスラーム神秘主義の修行道』〜「第一章 学問としてのスーフィズム」より)

「預言者なき時代は、イスラームの教えを理解し、継承する学問と実践の専門家である学者がイスラーム共同体(ウンマ)を担う責任を持つ(・・・)。そして、イスラーム学者たちは、イスラームの教え(叡智・知識)を教える学問として神学と法学、心の浄化の作法・実践を教える学問をスーフィズムであるとした。
(・・・)
伝統的イスラームにとって、「神学・法学」と「スーフィズム」は人類が真理に至るための両輪のようなものであり、どちらかひとつでも欠けたら成り立たない。また「知識」と「浄化」はお互いがバランスをもって支え合うことが重要であり、頭でっかちの神学者や机上の空論の法学者、教義や法を逸脱したスーフィーになることはイスラームの理念とは反する。」

「スーフィズムがクルアーンで説かれている心の浄化の道を探る営みであることを説明したが、スーフィズムは大きく分けてふたつの領域に分かれる。
 ひとつ目は、イスラームの根本教義であるタウヒード(アッラーの唯一絶対性)の真理を神秘哲学、存在論の観点から思索する哲学的スーフィズム(タサウウウ・イルミー)、ふたつ目はタウヒードを信仰告白や礼拝、喜捨、断食、巡礼などムスリムとしての義務行為や作法、祈祷や瞑想、音楽や詩作、食事など特別な崇拝行為から日常の作法など実践を通じて味わう実践的スーフィズム(タサウウウ・アマリー)である。
 井筒俊彦によって日本に紹介されたイブン・アラビーの存在一性論などの神秘哲学は、もっぱら前者の哲学的スーフィズムにあたる。哲学的スーフィズムは研ぎ澄まされた精神による集中力と論理的思索によって、絶対的一者としてのアッラーの存在から、この世の多様な被造物がどのように顕現したのかを考察する学問である。」

(『BASHAR(バシャール)2017』より)

「バシャール/オール・ザット・イズという単語を使うときには、ザ・ワンのなかで、「みずからがすべてだと知っている部分」、そこをオール・ザット・イズと呼んでいます。
 ザ・ワンそのものは、非常に均質・同質(homogeneous)なので、自分を認識する「自意識」すらありません。
 対して、オール・ザット・イズは、自分こそすべてだ、ということを自分で認識している部分です。
 オール・ザット・イズはザ・ワンの一部というよりは、「ザ・ワンが別のステートにある状態」といえば、少しは分かりやすくなるかもしれません」

「バシャール/ザ・ワンには、存在しないものは含まれません。
 なぜならば、存在していないものは存在していないからです。
 ザ・ワンのなかには「存在しない」という概念。コンセプトは入っていますが、存在しないものが、そこに存在することはありません。
 もっと明確に言うと、ザ・ワンは、「自分自身が存在していることを知らないすべて」であって、オール・ザット・イズは、「自分自身が存在していることを知っているすべて」です。」

「バシャール/ザ・ワンの外にはなにもないからです。
 たとえば、内側・外側という「概念」はザ・ワンのなかに存在していますが、実際には、ザ・ワンには「外側」は存在しないのです。」

「バシャール/オーバーソウルは、オール・ザット・イズのなかにある、「反映」です。
 そして、さまざまなタイプの反映の集合体が、オーバーソウルです。
 別の言い方をすると、オール・ザット・イズがあって、最初にオール・ザット・イズの姿が、みずからオール・ザット・イズに反映(reflect)されます。
 ここは皆さんが「天使界」と呼んでいる領域であり、オーナーソウル・レベルもあります。
 オール・ザット・イズが、「どのような次元でどのような自分自身を体験するぁ」によって、さまざまな「規模とサイズ」のオーバーソウルが存在します。
 たとえば、「多次元宇宙のオーバーソウル」、「宇宙のオーバーソウル」、「銀河レベルのオーバーソウル」、「惑星系のオーバーソウル」、「惑星単体のオーバーソウル」、「グループのオーバーソウル」というふうに。
 別の言い方をすると、たとえば、地球規模で集まっている人々のグループ、大陸規模で集まっているグループ、国規模のグループ、州規模のグループ、市、街・・・」

「バシャール/個別のソウルはオーバーソウルとのつながりがあるので、似たような性質を元々、持つことになります。
 しかし、そのオーバーソウルの性質を「どう表現するか」には、個々に違いがあるので、オーバーソウルは、その数だけ「違った体験」ができる、ということです。
 手を使って説明します。
 手がオーバーソウルで、指はオーバーソウルから出てきた個々の魂です。
 それぞれの指はオーバーソウルとつながっているけれど、個々の性質・特色を持っています。
 オーバーソウルは、指(ソウル)を通して、それぞれ違う体験をしている。
 けれど、手全体としての「オーバーソウルの性質」もあって、それは指の性質とは違っています。」

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