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山田広昭「贈与のモラル/互酬性とアナキズムの可能性」

☆mediopos-2307  2021.3.11

与えたものが与えられる
それは宇宙の根本原理のひとつ

もちろんそれは
同時的で一対一で現象するとはかぎらず
時間や空間の制約を離れたところでこそ働く
多次元的なカルマの法則だといってもいいかもしれない

その原理から「贈与」の論をとらえていくと
そのぞれの論がどの側面で起こる
互酬を問題にしているのかがわかる

ギフト(gift)という言葉が
「贈り物」と「毒」という
相反する意味をもつことも
その原理からとらえれば頷ける

余談になるがずっと前に
ネットでこんな内容の名言を聞かされたことがある
(決してたんなる「迷言」とはいえないだろう)
「甘やかされた者の気持ちは
 甘やかされた者にしかわからない」

ある意味で恵まれた環境で育てられたということは
その環境は「贈り物」であると同時に
それゆえの「毒」でもあり得るということでもある
「甘やかされた」環境は
「甘やかされた」がゆえに人を強く縛ってしまい
その関係性から自由になることが難しくなるのだ
(依存したままそこから離れることができなくなる)

逆にいえば自律せざるをえない
ある意味で厳しい環境に生まれた者のほうが
そうした縛りから比較的自由でいられる可能性をもつ
(その厳しい「自由」に押し潰されないかぎりにおいてだが)

山田広昭さんの「エゴイストの連合」についての話のなかにある
「鎖につながれている人は連合できない」
エゴイストだけが「自律的な「個人」という立ち位置」をとり得る
ということとも関連してくる

どんな境遇で生まれたかということにとしても
与えたものが与えられる原理は
それぞれの仕方でたしかに働いている
その意味では「与えきり」はあり得ず
「与えられきり」もまたあり得ない

けれども現代という
等価交換の原則がその場で働くように見える世界のなかで
どのように「贈与のモラル」をとらえていくか
ある意味でそこに人の可能性が
試されているともいえるかもしれない

そんななか「贈与」は
等価交換の原則を逸脱したものとなるが
「与える」ことで目線を上に置くのでもなく
「与えられる」ことでみずからを下に置くのでもなく
「与えられない」ことで不満を持つのでもなく
「贈与のモラル」のもと
自由においてともに生きていけるような
そんな「アナキズム」の可能性への試みを

■山田広昭「贈与のモラル/互酬性とアナキズムの可能性」
 (『談 2021. no.120』TASC 2021.3 所収)
■山田広昭『可能なるアナキズム/マルセル・モースと贈与のモラル』(インスクリプト 2020.9)
 ※2020.10.3にとりあげた本

「モース自身は、決して「贈与とは何か」を追求しようとはしていないし、純粋に贈与だけの社会があり得るかどうかというような問いかけもしていません。彼にとっての贈与は、あくまでも共同体と共同体の間の交換システムであり、社会の基底にある、非常にプラクティカルな問題としれ捉えられていました。それは贈与というかたちをとっているけれど実際には交換であって、何らかのものが返ってくる。あげっぱなし、つまりあげてそれでおしまいということではない。そうであるがゆえに、共同体間の関係を規定したり良好に保つためのシステムになり得るわけです。
 贈与は無償で人を助ける慈善行為のようなイメージがあります。まぁ、それっも間違いではないと思いますが、贈与を無償の行為としてだけ捉えると贈与は一方的なものになってしまい、人と人との関係性や、それによって生まれる社会を考えることにはつながりません。モースは社会学者であり人類学者ですから、やっぱり社会を円滑に運営するためのシステムとして贈与を捉えている。私はそこが重要だと考えます。つまりモースが着目したのは、未開社会の交換システムとしての贈与を実践してきた彼等の知恵であり、それをモラルと言い、私たちはそのモラルにこそ学ぶべきなのではないか、と思うわけです。

 ・・・・・・「人と人を結び付ける」贈与のプラクティカルな機能が重要だということですね。しかし先生ご自身も指摘されているように、贈与には、相手に不快感を抱かせる「毒」の部分もある・・・・・・。

 もちろんそうです。いいことばかりはないという贈与の両義性は、ぜひ強調しておきたいことです。モース自身もそれを強く意識していて、『贈与論』以前に書かれた「ギフト、ギフト」(一九二四)という論文では、ゲルマン系の言語の多くでギフト(gift)という言葉が「贈り物」と「毒」という、相反するような二つの意味をもつことを指摘しています。(・・・)
 それ以上に重要なのは。贈り物は理由なく拒むこともできないし、お返しをしないでいることもできないというモースの指摘です。だから私たちは贈り物を受け取った時に、喜びと同時に不快を感じずにはいられない。相手にもよりますが、「これで私に何かさせようとしているのか?」と、隠された意図を探るような感覚は、私たちにも日常的にありますよね。これは贈与というシステムがもともともっている、「人と人を結びつける」という機能と不可分なもので、つまり贈与は常に負債とセットだということです。もらうと借りができちゃうので、返さなければならない。その束縛感が不快感につながるのだと思います。
 人は人とつながっていないと生きられませんから、絆はとても大切ですが、解きたいときに解けなければ絆ではなく鎖になってしまう。贈与には、少し人を縛る面がある。贈り主が意識していなくても。そういう束縛が機能してしまう。借りをつくったら返さなければならないというメンタリティが私たちの心の奥深くに埋め込まれていて、それが贈与をめぐる不快感になる。ですから私はこの本のなかで、市場経済の基本となっている等価交換の原則をただ否定的に語るのではなく、借りをつくらない、すなわち個人の自由が保たれたかたちでなされる交換のシステムとして、その肯定的側面を強調して書いたつもりです。
 先ほど言ったように、私は資本主義における市場経済や商品経済を完全に否定しようとは考えていません。むしろその基本となっている等価交換は人を解放する側面をもっていて、その意味では、束縛的な側面をもつ贈与交換とは対照的です。等価交換する両者は同等の関係を結ぶことができますから、一度きりで関係を終えることもできる。必要ならまた等価交換すればいい。しかし贈与交換は、そんなふうに一回一回「チャラ」にはできない。必ずしも不快感とか毒とかいう言い方をしなくてもいいと思いますが、贈与の問題を考える時は、その束縛性も含めて考えないと実効性のない絵空事になってしまったり、何かしら惜しみなく与える慈愛に満ちた「贈与教」のような、宗教めいた話になってしまうのではないかと思います。」

「贈与交換は単なる互酬性原理には還元されない複合的なシステムであり、有効性のある部分は、贈られた者を不安にするような毒性(悪意)によっている、つまり贈与は悪意とは無縁ではあり得ないという事実を認識することです。しかしこの毒は、たとえば、モースが『贈与論』のなかで報告している有名な「ポトラッチ」という闘技的贈与が戦争を回避する役割を果たしているように、人間の最大の毒である専制や戦争に対抗する毒、文字どおりの同毒療法として考えることができるのではないかと思います。
 しかしまたその「贈与のモラル」の毒性が、人を鎖のように縛ってしまうおぞましいものにならないために、いくつかのアイデアが必要です。その一つが「第三者への返済」というアイデアです。これは巻単位言うと、「お返しの義務」は必ずしも贈ってきた相手に返さなくても、別の人に返してもいいんじゃないか、ということです。お返しの方法は、自分で選ぶことができる。そうすれば「お返しの義務」を果たすこともできるし、贈与による関係性は一対一の関係を離れ、広く社会に開放することができる。
 市場経済、とりわけ等価交換の原則は、それだけでは人間の社会的関係性の基礎的な原理とはなり得ないと思います。負債の概念(お返しの義務)が、私たちが望む社会の基礎的原理として意味をもち得るとすれば、それは、貸し借り(交換)には不均衡があることを認識したうえで、返済(お返し)を誰にどのようにするかは受け取った者(借り手/負債者)が自由に決められるような交換のシステムであるかもしれません。そのためにも、私たち自身が、自由に決められる「個人」であることが必要です。『負債礼賛』(日本語訳は『借りの哲学』太田出版。二〇一四)という本を書いたナタリー・サルトゥー=ラジェという学者がそのことを強調してしますが、私はそてに賛同します。
 この本の最後には。ドイツの哲学者であるマックス・シュティルナーの著作『唯一者とその所有』(一八四四)から「互いに連合に入りうるのはただ個人のみであって・・・・・・」という有名な一節を引用しました。シュティルナーは、国家や政治からの完全な離脱を主張する徹底したエゴイズムで知られていますが、彼は「エゴイストの連合」ということを言っていて、エゴイストだけが本当に連合をつくることができるんだということを強く言うわけです。鎖につながれている人は連合できない。共同体や組織い縛られた不自由な状態にある人は、本当の意味で人とつながることはできない。自律的な「個人」という立ち位置は、贈与の毒性の解毒剤として、私たちがもつべきものだと思います。

 ・・・・・・その辺りで、アナキズムの思想とリンクしていくのですね。

 私が単に、それをアナキズムと呼びたい、ということにすぎないのかもしれません。私はそれを地縁にもとづくコミュニティではなく。共通の考え方をもって結びつくコミュニティとして構想しているので、アソシエーショニズムと呼んでもいいかもしれません。しかし、私がアナキズムに託すのは、生産でも消費でも社会の構造でも、中央に権力のない状態で、それはやはりアナキズムと呼ぶのが一番しっくりくる。
 今、アナキズムを標榜している人にはいろんな立場があると思います。多くはやはり個人主義的な生き方としてのアナキズムですね。組織に縛られることなく、自由に生きていきたいという思いが強い。それは一種芸術家肌のアナキズムで、既成の概念を破壊するという「勇ましさ」ももっています。そういう面もあるけれど、単に個人の生き方の問題ではなく、社会の構成様式としてアナキズムを考えたいというのが、この本を書きたかった最大の理由です。」

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