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安田登『日本人の身体』

☆mediopos3388  2024.2.26

身心一如という言葉がある

古い日本語には
「からだ」という言葉はなく
その言葉が使われるようになったとき
死体を意味していた

それに対して
生きている身体は「身(み)」と呼ばれ
心や魂と一体のものだった

「からだ」という言葉が生まれたのは
身心一如ではなくなり
対象化された物質身体を
じぶんだととらえるようになってきたからだろう

現代のように「からだ」を
医者に委ねてもそれを疑うことさえない感覚は
その分離された物質身体をじぶんだと
疑わなくなってきているということに他ならない
死体がじぶんだというのはまさにゾンビである

「からだ」の語源は「殻」だともいわれるが
それは自と他とを分ける境界・壁だともいえる

「からだ」がじぶんだということは
ひととも世界とも
いうまでもなく自然とも
切り離されているということにほかならない

とくに「自我の確立」が
明治以降日本人の課題とされてきたことから
そうした「からだ」は「個」という認識においても
ますます環境から孤立してくる
そしておそらくそこに
ある種の病も生まれてくることにもなっている
分離と統合がうまく機能していないということでもある

個が個として認識されることは
現代においては不可欠なものとなっているため
それが否定されると世の中では生きづらくなるが

現代における課題は
個が個でありながらそのうえで
それがモナドとして世界と照らし合い
さらにモナドを超え浸透し合っているということが
「一如」として体得されるようになるということだろう

ちなみに古典ギリシャ語においては
魂は「プネウマ」で亡骸は「アウトス」
『イーリアス』では「ソーマ」という言葉も
死体という意味で使われているが

旧約聖書で「体」や「肉」と訳されている
ヘブライ語の「バーサール」は
日本の「身」に近い言葉だという

おそらくどの地域でもかつては
じぶんを「身」としてとらえていたのが
時代を経るに従っていわばからだと魂が
別々の言葉で表されるようになるようだ

さて現代人の「からだ」だが
「からだ」がじぶんで
それがすべてだということになると
「若さ」こそが最上の価値となり
「老い」は嫌悪であり恐れでしかありえなくなる

安田登は能楽師だが
その視点からすると能のような古典芸能の世界では
「「若い」というのは、相手を揶揄する言葉でこそあれ、
決してほめる言葉では」ない
つまり未熟であることを意味する

「大切なことは年を取っても「花」を保つこと」であり
それは「「若さ」を保つこと」ではなく
「「若さ」というのはいずれはなくなるものであるが故に
「それに頼っていては、
芸能者としてはむしろ危険」であるというのである

「命には終わりがあり、能には果てあるべからず」
という世阿弥の言葉も紹介されているが
どんなことであれ成熟には「果て」はない

老いが老害になるのは
老いることに問題があるのではなく
老いによる成熟がなされず
視野狭窄が進行しているためだといえる
幼児性への退行も同様である

成熟には「果て」はないのだから
死さえも「壁」とはなり得ない

■安田登『日本人の身体』(ちくま新書 2014/9)

*(「はじめに」より)

「古い日本語の「からだ」というのは死体という意味でした。生きている身体は「身(み)と呼ばれ、それは心と魂と一体のものでした。やがて、生きている身体が「からだ」と呼ばれるようになったことで、からだは自分自身から離れて対象化されるようになります。そうすると、自分自身との一体感が薄れるので、専門家である他人の手に委ねても平気なようになるのです。

 それだけではありません。「からだ」の語源である「殻」のように、自分の周囲に強固な境界を設け、他人との壁を設けるようになります。

 このような壁が強いと、能をはじめとする古典芸能のほとんどは演じることができません。古典芸能は、楽譜も曖昧なものだし、指揮者もいない。お互いの呼吸で合わせていきます。しかも、その場その場で。」

「他人とだけでなく、自然との境界も曖昧になるので、自然とも共鳴ができます。『おくのほそ道』の本で、日光の杉並木から漏れてくる日の光に感動し、人生が変わったという人の話を書きました。私たちの回りには、私たちの生き方すらも変えてしまうほどの自然や、そして人がたくさん存在しています。

 現代は、それらに対して、あるいは目をつぶり、あるいは拒絶し、いよいよ「孤」の道を歩んでいるように感じます。これはとてももったいないことだと思うのです。

 このような現状は、明治の人たちが初めて目覚め、そして志向した「自我の確立」という方向の行き過ぎた結果なのかもしれません。」

*(「第1章 「身」と「からだ」」より)

「古くは、日本には「からだ」という言葉がありませんでした。あったのは「み(身)」です。
 身は「実」と同源の言葉で、中身のつまった身体をいいます。その中身とは命や魂ですが、「身」という言葉しかなかった時代には「魂」という言葉もありませんでした。
 「身」とは身体と玉石。体と心が未分化の時代の統一体としての身体をいいます。
 ちなみに後の時代になって生まれてくる「からだ」という言葉は、もはやもぬけの殻や、からっぽの「から」が語源ではないかといわれていますが、魂の抜けた殻としての「死体」という意味が最初でしや。そして「からだ」という語がない時代には「魂」という言葉もなく。『古事記』の中に「たま」という語は出てきますが。そのほとんどが勾玉をあらわす「たま」です。
 ところが「西洋」の古典を読むと神話ができた頃には、すでに身心は分離していたようです。
(・・・)
 「魂」の古典ギリシャ語はプネウマで、「亡骸」と訳されている部分は「彼ら自身(アウトス)」ですが、からだをあらわす古典ギリシャ語、ソーマも『イーリアス』の中では「死体」という意味で使われています。
 日本語の「身」は身心未分化の統一体として身体で、これに対してギリシャの身体は殻としての「からだ」と「こころ(魂)」とが分かれていましたが、この中間にあるのが『旧約聖書』の身体、ヘブライの身体です。
 日本語訳(新共同訳)の『旧約聖書』で「体」や「肉」と訳されているヘブライ語の「バーサール」は、「命の霊をもつ肉(創世記7章15節)と書かれるように、その中に「命の霊」を有する身体で、日本の「身」に近いものです。
 しかし「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから(創世記6章3節)といわれるように、この「命の霊」は神に所属するものであり、「バーサール」は、それが抜けてしまう可能性のある存在でもあるということです。
 バーサールは統一体でありながら、しかしそのコントロール権は神に属していて、人間としては何もできないのです。」

「日本でも、時代が下ると身心は分かれて「からだ」という言葉が使われるようになります。
(・・・)
「身」が「からだ(殻=死体)に取って代わられるようになると、身体をモノとして扱うようになります。身体の客体化です。
 そして「からだを鍛える」というような、突拍子もない考えが生まれます。
「鍛える」というのは、「きた(段)」を何度も作る、すなわち金属を鍛練するために何度も打つというのが本来の意味で、身体をそのようにして扱うのは「からだ」を自分自身から離したとき、すなわち外在化・客体化にしてはじめて可能になります。自分自身と身体が一体だったときには、そのようなことは思いもよらなかったでしょう。」

「自分の生だけという小さな世界ではなく、死者も含めて、もっと大きな世界の中で生きている。それが少し前の日本人でした。
 大きな流れの中にいるからこそ、ゆったりと、おおらかな身体をもっていました。
 身心が分かれていなかったおおらかな日本人は、生者と死者との区別も曖昧であり、他者と自分との境界も曖昧でした。」

*(「第3章 溢れ出る身体」より)

「どうも日本人は身体であれ、心であれ、内と外との境界が曖昧で、そのために裡なるものが容易に外に溢れだしやすい傾向にあったようです。
 むろん、これは日本人に限定をする必要はありません。幼い子は洋の東西を問わず内と外の境界は曖昧であり、多くの子どもは「あぶれ者」です。自己と他者の区別も曖昧だし、夢が現実に侵入してきたりもします。そしてみんな暴君です。
 この曖昧さをなくして自己と他者を峻別して「個」を作ることや、自分の「あぶれ性」をなくして社会人になることが西洋的な価値観では「成熟(mature)」だと思われています。」

「現代の生活様式の変化は、日本人の「あわい性」や「あぶれ性」を変えるかもしれませんが、しかしそれでもそう簡単には変えることができないものもあるとも感じています。
 それがひととひととの関係における「あわい性」ではないかと思うのです。」

「三木成夫は。動物の食と性の波は〝植物的〟な内蔵系が体癖の殻を貫いて、直接宇宙と交流することによって産み出されると書きました。
 そこでは、宇宙リズムに乗って、内蔵系の中心が食の器官系と性の器官系のあいだを果てしなく往復する「内蔵波動」が生じ、これこそ動物のいのちの波をからだの奥底から支える〝はらわた〟の根源の機能であり。動物のもつ宇宙生命をもっとも端的に表現したものでろうというのです。
 わたしたち日本人は、「あわい」と「あしらい(あえ・しらう)」によって、体癖という壁を持ちながらも、他者や環境(宇宙)と直接的な交流をもってきたということができるかも知れません。そして、それを支えるのは「内蔵波動」、日本的ないい方をすれば「はら」です。」

*(「第4章 ため息と内蔵」より)

「日本人は「息」に生命そのものを感じていました。「いのち」という言葉は「息(い)の霊(ち)」だという説があります。
『古事記』などで霊性を表す言葉は「み」・「ひ」・「ち」の三つがあります。この中で「いのち」に使われる「ち」はもっとも強い霊性です。「み」と「ひ」が、どちからというと静的な霊性に使われるのに対して、「ち」は、たとえば大蛇(おろち)や雷(いかずち)、あるいは血や乳などに使われるように。生命力溢れる、躍動する霊性をあらわすときに使う言葉です。
 息に、その強い霊性を吹き込んだのが「いのち」だとするならば、「あはれ」はまさに溢れだした蠢く生命なのです。
 日本人の身体感の基本は、自他の区別もなく、また環境と自己との差別もない曖昧な身体でした。ふだんはそれは曖昧な境界線の中に留まっていますが、なにかがあるとすぐに溢れ出し、他人と一体化し、自然と一体化しようとします。「あはれ」とは、他人や環境と一体化せんとあふれ出した、蠢く自己の霊性そのものなのです。」

「若い役者は、喉もからだも強いし、柔らかい。大きな声も出るし、激しい動きもできます。
 しかし、そんな喉やからだで出した声や動きは能になりません。私がもっと若く、からだも自由に動いたころ、型の稽古をしていただくと「それでは体操みたいだ」とか「それじゃあ、ダンスだ」とかいって叱られました。
 声も「うるさい」と叱られました。しかし、だからといって抑えて謡うと「もっと張れ」と、これまた叱られます。
 若い頃は「うるさい」といわれ、アクロバットみたいだ」と揶揄されながらも、ただ一生懸命に勤める。「師匠が生きているうちは『うまい』といわれようと思うな」とも言われました。ただ、いわれたことを自分の最大限の力で演じる。
 うるさいし、品もない。
 が、そのように一生懸命勤めていて老年になり、声帯も固まり自由な振動もままならず、美しい声など出なくなったとき、そのときにこそ「内蔵の深部より発する深くて強い息」によって出る声こそが能の声なのです。
 そのためには、何はともあれ老いなければならない。からだも硬くなり、声帯も硬直化する。そんな「老い」こそ、もっとも重要であり、そして心から望むべき状態なのです。」

「現代は、「老い」を嫌悪しているように感じます。いや、嫌悪というよりも恐怖しているようにすら感じる。
 若さを保ち、若く見えることに時間もお金も費やしている人が多い。美容やエステにお金をかけるだけでなく、スポーツセンターでからだを鍛え(というより、からだを痛めつけ)、整形までする。若さのためにお金だけでなく、からだもすり減らしているというなんとも不思議な現象が起きています。
「老」という文字を見たときに、古典芸能と関わる人ならば「老成」という言葉を思い浮かべる人が多いと思うのですが。どうも世間では「老醜」が浮かぶようなのです。
(・・・)
 古典芸能の世界では逆です。「若い」というのは、相手を揶揄する言葉でこそあれ、決してほめる言葉ではありません。(・・・)
 若いよりも「老い」の方がいい。これは日本語の語源をみてもいえることです。
「若い」の語源は「弱い」とか「わずか」であるともいわれています。少なくとも上代においては、若いとは「幼い」という意味でした。未成熟な状態が「若い」なのです。
 それに対して「老い(老ゆ)」は「多い」とか「移ろう」が語源だといわれています。
 ですからアンチ・エイジングなどは冗談ではない。できるだけ早く、自然に美しく年を取りたいと思っているのです。
 中世になると「老い」と「生い」とは同じような音として共用されるようになります。」

「文字で見ると全く違う意味のようですが、しかし「生い」も「老い」も能ができた室町時代ではほとんど同じニュアンスで使われていたのです。「老い」も、新たな成長、すなわち「生い」なのです。」

「大切なことは年を取っても「花」を保つことです。それは決して「若さ」を保つことではありません。「若さ」というのはいずれはなくなるもの。それに頼っていては、芸能者としてはむしろ危険なのです。
(・・・)
 世阿弥が老いの「誤り」としてあげているのは、自分の花がすでに失せているのも知らず、若いころの名声ばかりを頼りにして、若いころと同じようにすることです。
 世阿弥は「住する所なきを、まづ花と知るべし」と書いています。老いても「花」であるためには立ち止まらないこと、過去の栄光にしがみつかないことが大切です。
(・・・)
 からだも十分に動かず、声も美声ではなくなってきた。その時にこそ本当の能、すなわち「心(しん)にてする能」、あるいは「心より出で来る能」ができるようになるのです。
 そういう能では謡の美しさや舞の素晴らしさは二の次になります。世阿弥は「舞・働は態(わざ)なり。主になるものは心なり。また、正位なり」といいます。
 この「正位心」で思い出すのは『論語』の従心です。
「従心」は孔子、七十歳の境地をいう言葉です。
 十有五で学に志した孔子の魂の遍歴は、七十歳の「心の欲する所に従いて矩を踰えず」で完成します。」

「世阿弥はいいます。
「命には終わりがあり、能には果てあるべからず」
 命が終わっても続く道、私たちの「身」は永遠の天鈞の中に漂っているのです。」

*(「あとがき」より)

「年をとると体力は落ちるものだ。
 そういわれている。しかし、どうもその実感がない。
 (・・・)
 運動らしい運動は何もしていない。スポーツクラブにも通ってないし、ジョギングだってしていない。それなのに、体力はむしろついてきているようなのだ。
 そうなると「体力」っていったい何だろうと思ってしまう。そう思って調べてみるとどうもはっきりしない。(・・・)
 変でしょ。「体力」、からだのちからって。
 考えれば考えるほど、その変なところが気になってしまい、やがて体力なんてものは存在しないんじゃないかと思えてきた。そうだ。体力なんてないんだ。ないに違いない。体力なっか、もともと存在せず、体力的なものなどは考え方ひとつで変わってしまうのだ。」

「どうも現代人は自分の身体を気にしすぎるのではないか。
 昔の人は、とてつもなく長い時間感覚や、身体に対するおおらかさをもっていた。そして自分を自然の中に置いて、ゆったりと生きていた。ちなみにそれが現代に残っているのが能の世界である。だからか、能の世界の人たちは、高齢になっても現役を続けている。」

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