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座談会 永井玲衣×冨岡薫×三浦隼暉「なぜわたしたちは哲学できないのか」(「すばる」2023年10月号/池田晶子『考える人―口伝(オラクル)西洋哲学史』

☆mediopos3228  2023.9.19

池田晶子は自分を「文筆家」と称し
哲学者と自称してはいなかった

永井玲衣のエッセイがあると
読んでみたいと思うことが多いのだが
それは「哲学対話」を試みているにもかかわらず
今回とりあげている「すばる2023年10月号」の
「なぜわたしたちは哲学できないのか」
という座談会で
「最近、著者紹介文に「哲学者」と書いてもらい、
恥ずかしい、嫌だなと内心思いながら、
仕方なく「哲学者です」と名乗ることも」ある
というような姿勢でいることだろう

なにより永井氏は「何にも所属していない」
つまり「制度」として「保証」されているような
「哲学者」として「哲学」の場にいるわけではない

「哲学」とはなにより「考える」ことであり
その対象は決められてはいない
いわゆる「人生論」ではないが
「制度」としての「学問」のなかでしか
成立しないようなものではなく
ある意味であらゆる「学問」の源でもある

座談会のなかで三浦隼暉が
田中美知太郎が哲学を
「諸学問の技術をまとめ上げる技術として
「技術の技術」だ」と語っていると紹介しているが
おそらくそれは誤解を招く視点かもしれない

哲学は「技術」というよりも
諸学問のもととなっているものであり
それがゆえに同時に諸学問についての
メタレベルの問いでもあり得るのではないか
「技術」であるとすれば
ソクラテスの「産婆術」的なそれだろう

そういう意味では
「哲学」という学問を
制度のなかに位置づけるのは難しい

逆にいえば
永井氏が座談会の最後に
「分からないからこそ一緒に考えましょう」
と語っているように

また池田晶子が『考える人』で
「哲学とは何かと問う前に、
誰を哲学者と呼ぶのか、
どのようなこころを哲学的と言うのか、
と問うべきなのだ。」
と記しているように

哲学を制度のなかに
閉じ込めるようなことはしないほうがよさそうだ
とはいえもし大学から
「哲学」が追放される時代が来るとすれば
あらゆる学問は
ただの「技術」に堕してしまうだろうが・・・

■池田晶子『考える人―口伝(オラクル)西洋哲学史』
 (中公文庫 中央公論新社 1998/6)
■座談会/永井玲衣×冨岡薫×三浦隼暉
 「なぜわたしたちは哲学できないのか」
 (「すばる」2023年10月号 集英社 2023/9)

(池田晶子『考える人―口伝(オラクル)西洋哲学史』〜「はじめに 哲学とは何か、むしろ哲学者とは何者か」より)

「もしもそれを知りたいと、ほんとうに希うのなら、まず、その言葉をこそ、きっぱりと捨ててしまうべきなのだ。
 そう、「哲学」というあの言葉、そしてあれら哲学概論、哲学入門、哲学とは何か、哲学に何ができるのか、哲学はこれでわかる、甦れ哲学! 等々————。私たちのまわりでは、何と多くの哲学が語られようとしていることか、そしれ、それらがどれほど哲学のほんとうを語り得ているか。「哲学」という言葉を一切用いることなく、哲学を語ることができるのでなければ、それは哲学ではない。この試みの全体は、この基本的な確信に基づくものだ。
 それなら哲学はどこにあるか。教壇になく、教科書注釈書になく、敢えていうなら先哲たちの著作のなかにさえ、それを開く鍵穴の深く匿されて、私たちが知りたいと希う哲学はどこにあるのか。————哲学は、いまここにある。哲学という言葉など知りもしない私たちが、この人生に直に対面しているそこにある。いつも初めてこの世に目覚め出たような驚きと当惑のあるところならどこにでも必ず、哲学は発生している。この試みは、私たちの共有するそうした無垢の感受性への、絶対的な信頼に依るものだ。そして、ともにそこへ立ち還ることを、いざなうものだ。
 では哲学は人生論か、学問ではないのか、と人は言うだろう。哲学は決して人生論ではない、しかし学問であると言い切ってしまうには、きわめて厄介な微妙な領域が、私たちには残される。たとえば、先哲たちの著作を一からよどみなく復唱できる学者がいたとして、平生へ学内政治その他に余念がないとして、私たちは彼を哲学者だと言うか。あるいは、いわゆる在野を名のるとしても、他人の考えひとつ許すこともできずに互いに責め合っている光景は、哲学の本来とどのような位置関係にあるのか。ぼんやりと思い巡らしていた子供が、「ぼくも、死ぬの?」とぽつりと問うとき、そこにこそ私たちは哲学の発生を正当にも認めるのだ。つまり私たちは、哲学とは何かと問う前に、誰を哲学者と呼ぶのか、どのようなこころを哲学的と言うのか、と問うべきなのだ。」

(座談会/永井玲衣×冨岡薫×三浦隼暉「なぜわたしたちは哲学できないのか」より)

「三浦/自分がやっていることと、世の中で言われるところの「哲学」が完全に重なるのかは、いまだによく分からないんです。それがためらいの正体なのかなと。

 冨岡/自分のやっていることは果たして哲学なのか、という問題ですよね。私も胸を張って「哲学です」と言えるのかと問われると「うーん」となってしまいます。

 永井/そうですよね。私も似ています。自分がやっていることがまずあって、どうやら哲学がそれに近いらしい。あるいは哲学を自分側に引き寄せ過ぎて、それを哲学だと勝手に呼んでいるだけなのかなと、不安になってしまう。
(・・・)
 哲学の場を開くときには、「よし、哲学をするぞ」と始めるのではなく「もう皆さん既に哲学をしてしまっている」と前置きしているんですね。「問いは無理につくるのではなく。思い出すだけでいい。あなたがふだん何を考えていて、何に立ち止まっているかを思い出すだけでいいんです」と繰り返しお伝えしています。」

「三浦/私が哲学できている気がするのは、哲学研究室に在籍していて、哲学の学会にも所属していて、大学で哲学関係の授業を担当していて、哲学の研究仲間がいて、哲学に関連する読書会を開いているからではないか。ある種の共同体や制度の中にいることが、自分を哲学できている気にさせているのではと思ったわけです。
 もしもこの制度を全部取っ払って、無人島で一人考えていたとして「これが哲学です」と言えるのかというと、ういん、難しいかもと。

 富岡/制度の中にいると哲学している気がするのはなぜでしょう。所属していることによる安心感とか?
 
 三浦/所属することで何が起きるかというと、例えば学会だったた何かを発表するわけですね。するとリアクションがあって「これはいい哲学研究だ」とか「そんなのは哲学じゃない」とか判断される。そうしたことを通して、自分は哲学できている気になっているだけなのではないかと考えることができます。

 でも、その制度自体に哲学的な保証はあるのか。この世界の外側に神でもいない限りは「あなた方がやっているのは哲学です」と保証してくれるものが何もない。結局、制度によって保証されているだけで、それが本当に哲学だと言える人間はいるのだろうか、というこんなんい突き当たってしまったんです。」

「富岡/大学に所属していると、学問としてやらないと生き残れないみたいなところがあり、どうにかして理論に落とし込まなきゃと思っていたことに気づきました。内と外の壁がつくられてしまっているというのは、本当にそうですね。

 永井/内と外をつくり出している問題があると同時に、内の中でさえ哲学から遠ざけられる場合がある。それは、社会的な状況に関わっていると思うんですね。」

「三浦/「哲学とは何か」という問いが難しいのは。一つには明確な対象がないということだと言われることがあります。生物学は生物を扱うし、数学は数を扱う。「哲学は何を扱うんですか、哲ですか」というような冗談がありますね。
(・・・)
 医学を学ぶことで医師になり、建築学を学ぶことで建築家になる。知識は技術と常につながっています。哲学もまた、知識であると同時に技術だということが重要です。つまり哲学はそうした諸学問の技術をまとめ上げる技術として「技術の技術」だと田中美知太郎は語っているのです。多なるものを統合して一つのものとしてまとめあげる方法ににこそ哲学の本領があるのではないかと私も考えています。
 この「技術の技術」は、今の社会に必要なものだと思うんです。よく言われることですが、世の中に存在する情報ってものすごい量なわけですよね。誰もが情報の海に投げ込まれている。どのように情報を取捨選択して、まとめて自分なりのものにしていくのか。哲学に関心が持たれているのは、そういうことかなと思うんですね。

 永井/それは、哲学とは何かということよりも、社会における哲学の役割、社会の中で哲学に何ができかということでしょうか。

 三浦/どちらでもあって、いろんなものを一緒にまとめて考える力そのものが哲学にはあると思います。学問の領域だけではなく、生活の領域も含めてですね。まとめて、考えて、そこから一つ自分の態度を取り出す、そういうイメージです。
(・・・)
 もっと素朴なレベルでは。私たちがふだんからやっている「考える」ことも含まれてくるかもしれません。最近でいえば、新型コロナの流行の中で、ワクチンを打つべきか、マスクをするべきかなど、私たち自身で判断する必要が出てきています。医学の専門家たちが情報を提供してくれますが、自分はどうするかを自分なりに考えなきゃいけない。そのとき、医学だけじゃなくて、自分の生活と一緒に考える。そういう技術のヒントが哲学にはおそらくあるんじゃないかと思います。」

「永井/「哲学をやっていこう」と呼びかけるとき、誰として言うのかが問われますよね。とりわけ私は何にも所属していないので「私って誰なんだろう・・・・・・」と。最近、著者紹介文に「哲学者」と書いてもらい、恥ずかしい、嫌だなと内心思いながら、仕方なく「哲学者です」と名乗ることも。「哲学いいですよ」と呼びかけるとき、大松達知さんの「一生を終へたことなきわたくしが英語は一生役立つと説く」という現代短歌があって、それを思い出します(笑)。大松さんは英語教員だそうです。

 富岡/いい短歌ですね。

 永井/哲学はよくも悪くも生と結びついている。とりわけ生きていくということと非常に密接だと思います。問いは、私のこの身体から出てくるし、私が根差している場所から出てくるから。この私が行き続けるという実存の問題とも分かち難く結びついている。だからこそ、すごく重い行為のように思いたくなるし、実際そうだと思うんです。」

「永井/哲学の場を開くとき、いつも「一緒にやりましょう」という前向きな感じで終わっているのですが。この座談会も「分からないからこそ一緒に考えましょう」と呼びかけて終わりたいと思います。」

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