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成田悠輔「未来の超克」

☆mediopos-2277  2021.2.9

世界のさまざまな問題は
いちどその根底のところから
考えなおして見る必要がある

通常は疑ってもみない
それぞれのカテゴリーの根底にある
固定観念の力学とは逆に働く思考実験が
この「未来の超克」と題された連載では
試みられていくことになるようだ

ここに挙げられている
常識とは逆の力学でとらえられた
次のようなカテゴリーがとても魅力的なので
まだ未知数ながら紹介してみることにしたい

 ・測らない経済
 ・集まらない都市
 ・伝えないメディア
 ・決めない政治
 ・交わらないSNS
 ・学ばない教育
 ・探さない就活
 ・救わない宗教

どのカテゴリーの逆力学も
思考実験をするに値すると思われる
このなかで教育に関しては
「教えない教育」のほうがいいかもしれないが

さてこの連載の第一回「測らない経済(序)」
では経済というカテゴリーの逆力学が示唆されている

数値に置き換えるということのない経済はないがゆえに
「測らない経済」が思考実験されようとしている
経済問題の根底にあるのは数値に置き換えることだというのだ

最近では政治の道具にさせられかけている感もある
ベーシックインカムについても示唆されているが
そのBIによってお金から解放されることはないだろう
むしろ人をお金の観念に呪縛させてしまう可能性さえある

BIはある意味で「経済における友愛」であるだろうが
それが「精神における自由」が貫かれていないならば
むしろそれがお金に対する麻薬にさえなってしまう

「測ること」は
経済にかぎらずあらゆるカテゴリーについても
その根底から強力な呪縛となっているように思える

まるで老子のようだが
「測れるから大小が生まれる」のだ
そこには精神をスポイルし
ひとから自由を奪う罠がある

測ることから自由な経済
それがどんなに困難な思考実験だとしても
そこに精神の自由の観点を加えることで
現代を超克するための視点を
はるかな未来に向けて模索してみる価値はあるだろう

■成田悠輔「未来の超克」新連載 第一回 測らない経済(序)
 (『文學界』二〇二一年三月号 文藝春秋 2021.3 所収)

「錆びついた価値や制度のカテゴリーも死にゆく構造の一部であるからには、カテゴリー自体を揺るがす思考実験が必要だ。(・・・)連載の各回ごと、あるカテゴリーに抗った半熟な構想を示したい。

 ・測らない経済
 ・集まらない都市
 ・伝えないメディア
 ・決めない政治
 ・交わらないSNS
 ・学ばない教育
 ・探さない就活
 ・救わない宗教

 カテゴリーの力学と逆に動く思考実験をすることで、カテゴリーによる単純化の誘惑に負ける以前の未来を回想しよう。」

「経済が壊れている、何とかしなければと思い込んでみよう。その恐れを燃料にして、よりよい地点へと飛躍するためだ。経済が壊れていると感じるのは、経済や市場の評価が「あるべき真の」価値とズレているように見えるからだろう。この乖離をどうすれば整理できるだろうか?
 よくある処方箋が、万人に無条件で一定の所得を政府が保証するベーシックインカム(BI)だ。生活保護、失業保険など無数の保証がスパゲッティ状に絡み合った現在の制度を一元化するBIは、社会保障の究極的な簡略化・効率化・全面化だ。
 BIに託される夢はどでかい。「稼ぐためだけに生活を切り売りする労働」から人類が解放され、壊れた経済から自由になるという夢だ。自発的な強制労働から解放された人類は、市場の評価など気にせずにしたいこと・すべきことに全盛活を捧げられるようになる。そんな筋書きを、BIを後押しする資産家や投資家はしばしば語る。「やかましい貧者どもに恨まれると大変だ、口に札束でも突っ込んで黙らせておけ」とでも言いたげに。
 しかし私は、その夢は夢でしかない、ベーシックインカムは人類を経済から救わないと考える。なぜか?」

「物質的にはどんどん働かなくてもよくなっているにもかかわらず、働かなければならないという強迫観念が消える気配はない。だとすると、BIで路上から失業中の路上生活者が消えたとしても、失業者の心から「働けず稼げないダメ人間」という負い目が消えることはないのではないだろうか?
 BIによって人々の心境が悪化する可能性さえある。ドラゴンボールに「精神と時の部屋」があるのは暗示的である。可処分時間が可能にするのは、自己精神であり、自己反省であり、自己嫌悪である。人は暇だと鬱になる。小金と時間を与えられて人類が手に入れるのは、働けず稼げない自分へのより純化された自己嫌悪かもしれない。
 お金から解放されるにはまずお金が必要だという世界観の中に住むかぎり、私たちがお金から解放されることはない。薬物から解放されるためにはまず薬物で落ち着く必要があるという中毒者の泥沼そのものだからだ。
 真に必要なのはBIやお金ではない。稼げない人間、働けない人間でも何の引け目も感じずに生きられるような経済観と人生観への転換なのだ。」

「そんな新しい価値観を耕すにはどうすればいいのだろうか? ひと言で言えば、測ることを止めなければならない。
 そもそも経済は測ることの支配だ。順位をつけられるものたち、数えられるものたちに注目し、交感や増殖などの変換を加えると経済が発生する。しかし、今日の世界を見渡せば、数えられるものは驚くほど少ない。というか、数えたり順位をつけたりして意味があると私たちがとことん思えるものはどんどん減っているように思われる。

  「その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のことながら、僕の吸った煙草の本数や上がった階段の数や僕のペニスのサイズに対して誰ひとりとして興味など持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失い、ひとりぼっちになった。」(村上春樹『風の歌を聴け』)

 にもかかわらず、私たちはいったんすべてを測るよう調教されている。この洗脳は驚くほど私たちの全脳を覆っている。円やドルのような法定通貨だけでなく、平等を取り戻すことを目指した教育バウチャーのような疑似通貨もそうだし、通貨の分散革新を目指したビットコインやイーサリアムのような仮想通貨もそうだ。測って比べたらダメだということになっている、家庭などいくつかの禁忌地帯を除いて、測れる価値がしないしない領域を見つけることは難しい。
 歴史を振り返っても、測ることが廃棄されたことはほとんどない。かつて、経済が壊れているという感覚は「資本主義」や「市場原理主義」、「新自由主義」の問題だと語られていた。それに対置されたのが、「社会主義」や「共産主義」、そして微温的な「社会民主主義」だ。だが、そのいずれの主義も測定主義には手を触れなかった。人の労働を測ること(物象化)への嫌悪は示しても、小麦や布を測ることを停止しようとはついぞ考えなかった。あくまでも数量を測り、値段をつけることは前提として、数量と値段の計算と配分をどう変革するかに腐心した。
 ここに罠がある。測れるから大小が生まれる、ひとたび大小が生まれれば、大きいものが小さい者を制する。利益質の高い独占者が、競争で利幅を失負け犬を駆逐する。スケールするものが勝つ。正の利子がつけば富めるものがますます富む。
 測定こそ始源だというワナを逃れて、測らない経済は想像できないだろうか?」

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