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川原繁人『日本語の秘密』/九鬼周造「押韻論」/『マチネ・ポエティク詩集』/藤田正勝『九鬼周造』

☆mediopos3394  2024.3.3

かつて短歌の誕生・連歌の誕生
そして新体詩の誕生に続く
第四回目の革命たるべく
『マチネ・ポエティク詩集』が
中村真一郎・福永武彦を中心に
加藤周一・原條あき子・中西悟堂
窪田啓作・白井健三郎・枝野和夫を同人にして
刊行されたがその革命は頓挫する

その理論的背景には
九鬼周造が晩年に論じた「押韻論」があり
そこでは「言語の音響上の偶然的関係に基づく遊戯」として
押韻定型詩が提唱されていた

革命が頓挫したのは
九鬼周造の説く押韻定型詩の重要性とその理想が
マチネ・ポエティクにおいて実作された詩との間に
大きな距離があったからだ

たしかに日本語には母音が5種類しかなく
基本的に子音のあとには母音が続く
母音があとに続かなくてよい子音は「ん」だけ
そんななかで押韻を用いようとしても
ひどく単調な表現しかできないのである

しかも日本語には
五七五・五七五七七という五と七のリズムがあり
そのかたちのなかで
「が・の・に・を」という序詞が文の後に置かれ
また動詞や形容詞の語尾もまた単調な響きにしかならず
押韻に必須である偶然性を生かした
音楽性を発揮することが難しくなるのだ

以上の内容に関しては3年以上まえに
mediopos-2143(2020.9.28)でとりあげたことがあるが

九鬼周造とマチネ・ポエティクの前に立ち塞がった
日本語の響きの制約を克服する試みともなるだろうことが

川原繁人『日本語の秘密』に収められた
川原繁人の俵万智(短歌)及び
Mummy-D(ラップ)との対話のなかで興味深く語られている

意外なことに日本語の処理
とくに母音の扱いに関して
字余り・字足らずとされる短歌と
ラップの母音の表現には共通しているところがある

俵万智の短歌
「『今いちばん行きたいところをいってごらん』
        行きたいところはあなたのところ」

その「今いちばん」(6文字)の「ん」は
「ば」とくっついてひとつの音節になることで
5音節として聴き取ることができる
「言ってごらん」の「らん」も同様である

「行きたいところを」については
8文字なので字余りのように見えるものの
「ろを」は実際には「ろー」と発音されるので
音節的には字余りではなくなり7音節

全体として「揺れ」が許容されながら
現代語での短歌の表現が効果的なかたちで成立している

ラップに関しても
[ai](あい)を1つの音声にまとめてとらえるように
ひとつの母音をひとつの音符に割り当てることなく
「音節を圧縮する」方法によって
効果的な「韻」を踏むことができるように工夫されている

また「字余り」については
「何々です」の「す」を[des]と発音するように
「母音の無声化」が多用される

そうした手法をさまざまに駆使することで
ラップはその言葉に多くの情報を入れながら
聴覚的にキレのある表現が可能となっている

ラップの歌詞(リリック)を
詩語の「第四回目の革命」と呼ぶことは
まだできないだろうが
音韻とリズムへの挑戦という意味において
かつてのマチネ・ポエティクの試みが
具体的なかたちをとって
表現されているのではないかと思われる

■川原繁人『日本語の秘密』(講談社現代新書 2024/2)
■『九鬼周造全集第五巻』(岩波書店 1981.4)
■『マチネ・ポエティク詩集』(水声社 2014.5)
■藤田正勝『九鬼周造/理知と情熱のはざまに立つ<ことば>の哲学』
 (講談社選書メチエ 2016.7)

*(川原繁人『日本語の秘密』/「第1章 言語学から見える短歌の景色 俵万智」
  〜「短歌の字余りを分析してみる」より)

「川原/俵さんの歌は字余りの仕方が言語学的にも理にかなっている。私が特に好きなのが、最初に挙げた『今いちばん行きたいところをいってごらん』行きたいところはあなたのところ」という短歌です。この歌は初句から「今いちばん」と6字で字余りなのに、それをあまり感じさせません。
 この短歌を分析すると、まず文字数だけ見るとたしかに「い・ま・い・ち・ば・ん」で字余りになっている。けれども日本人が五・七・五を数えるとき、文字数に近い「拍」という単位だけでなく「音節」でも数えている可能性が高い。そして音節の観点から考えると、この歌は字余りではないんですね。

 俵/具体的にどのようなことでしょうか。

 川原/小さい「っ」た「ん」、「(ア)ー」「(イ)ー」「(ウ)ー」などの前の母音を伸ばす「伸ばし棒」は、前の拍にくっついてひとつの音節を形成します。そう考えると「今いちばん」の「ん」は、「ば」とくっついてひとつの音節になる。つまり、音節の観点からは、この句は「い・ま・い・ち・ばん」と5つの音節として解釈できる。すると、音節的には字余りではない。
「言ってごらん」も同じように解釈できます。こちらは純粋に音節で考えると、「いっ・て・ご・らん」と4つになってしまうくらいです。「行きたいところを」も8文字なので字余りに見えますが、最後の「ろを」は実際には「ろー」と発音されるので、音節的には字余りではありません。さらに、「行きたい」の「たい」の部分である[ai]もひとつの音節を形成している。(・・・)ですから、「行・き・たい・と・こ・ろ・は」も音節的には字余りではない。字面だけ見ると字余りが4つも含まれているこの句ですが、音節構造を考慮に入れると、どれも字余りではないんです。
 ふたつの拍がひとつの音節にまとめるケースを「重音節」と呼びます。具体的には「っ」「ん」「ー」、それに[ai]のような二重母音が含まれる場合です。そう考えると、この歌はすべての重音節の種類が詰め込まれていて、拍で考えると字余りだけど音節で考えると字余りでない例を網羅している。「いちばん」の「ん」、「行きたいところを」の「ろを(ろー)」、「いって」の小さい「っ」、「たい」の[ai]です。

 俵/今のお話を聞いていて思い出したのですが、私の歌に母音の[ai]を連発する作品があります。「食べたいでも痩せたいというコピーあり愛されたいでも愛したくない」(『サラダ記念日』)という歌なんですが、これも「食べたい」の[ai]をひとつの拍と捉えると、「た・べ・たい・で・も」となって字余りにならない。でも逆に「痩せたいという」という第二句は、「や・せ・た・い・と・い・う」と、「たい」をそれぞれ一文字分として七音にしている。つまり、「食べたい」の「たい」は一拍、「痩せたい」の「たい」は二拍分と、使い分けているんです。うーん、我ながら都合がいい(笑)。でも、私自身は短歌はうっすらと五・七・五・七・七」になっていればいいと考えています。

 川原/その「うっすら」という考え方がとても重要です。言語は、そんなに厳密ではっきりと白黒つけられるものじゃない。(・・・)拍を基準にしたり音節を基準にしたりという「揺れ」があって当然なんです。」

*(川原繁人『日本語の秘密』/「第1章 言語学から見える短歌の景色 俵万智」
  〜「言語芸術の世界」より)

「川原/日本語ラップは、少なくとも一般人の視線からは、言語藝術としてはまだ見られていない。一方、短歌は当たり前のようにことばを使った芸術だと認知されています。その意味で対局です。ですが「言葉を使った表現」という意味で両者は共通している。

 俵/ラップは詳しくないのですが、息子が大のラップ好きです。息子に勧められるままにラップを聴いてみたら、たしかに面白かった。ラップは短歌と比べると、アクロバティックな言葉の使い方がされています。でも大前提として、ちゃんと伝えたいこと、訴えたいことがあって、自由に言葉を使ってそれを表現している。

 川原/ラップはもともと1970年代にアメリカで貧困に苦しんでいた黒人たちが生みだしたヒップホップ文化の一部です。だから日本人がラップをするということ自体に批判があった、という話をMummy-Dさんも語っています。でも、日本人が日本語でラップをするということにも意味があると思うんです。日本語ラッパーたちは、ラップという世界の中で、日本語を使って何ができるかを模索しています。

 俵/日本語ラップと英語ラップの違いという見方は面白いです。日本語の響きって、英語に比べるとゆったりしていて余裕がある。その日本語の特性を活かしたラップが生まれると素敵だなと思う。「どうや、この技法は英語にはできへんやろ」という表現方法が見つかったら痛快です。英語の得意とするニュアンスに真っ向から日本語で挑むのもいいけど、「これは英語にはできませんよね」という日本語ラップの表現方法を見つけられたらクールですよね。

 川原/日本語ラップが始まった当初は、日本語は韻が聞こえてきにくい言語だと言われていました。母音が5種類しかないから、ひとつだけ一致してもそれは偶然の範囲内。でも、そんな性質を逆手にとって複数の母音を揃える方法が生み出され洗練されていった。」

*(川原繁人『日本語の秘密』/「第2章 日本語ラップと言葉の芸術 Mummy-D」
  〜「日本語は音符を「食って」しまう」より)

「川原/なぜ日本語がラップに向いていないと言われたのかを言語学の観点から明確にしていきましょう。日本語の特徴として、基本的に子音のあとには母音が続きます。「卵」だったら[tamago]で、[t]、[m]、[g]の子音のあとに[a]、[a]、[o]と母音がくる。母音があとに続かなくてよい子音は日本語では「ん」だけです。英語では子音と子音の連続が許されるので、そう考えると日本語は英語に比べて頻繁に母音が出て来る言語と考えられます。世界にはたくさんの言語が存在していて、ハワイ語のように日本語と似たような特徴を持った言語もあるので日本語が際立って特殊とうわけでもないのですが、少なくとも英語と比較すると、この点は明白です。そして、ひとつの母音をひとつの音符に割り当てていくと、日本語の単語を発するだけでたくさんの音符が必要になる。

 M(Mummy-D)/そう。必用以上に音符を「食って」しまう。

 川原/英語で「Christmas」と発音すると、音節はChristとmasの2つだけ。1音符に1つの音節をあてると音符は2つですみます。ところが日本語の音節構造を考えると「ク・リ・ス・マ・ス」と5つの音節がある。すると音符を5つも使うことになります。ひとつの単語を発するために多くの音符を消費するということは、全体として歌詞に込められるメッセージの量も少なくなってしまう。(・・・)」

*(川原繁人『日本語の秘密』/「第2章 日本語ラップと言葉の芸術 Mummy-D」
  〜「破裂音を使ってパーカッシブな響きを」より)

「M/メッセージ量の問題だけはない。必ず子音に母音がくっつくせいで、聴覚上ふにゃふにゃしてしまう。英語は子音を重ねる単語も多く、破裂をともなう音も多い。そもそもラップはパーカッシブな、打楽器的な表現。だからラップを歌うときには常に勢いのある破裂音で、マシンガンのように響きの硬い音を出したい。」

*(川原繁人『日本語の秘密』/「第2章 日本語ラップと言葉の芸術 Mummy-D」
  〜「日本語ラップにおける子音の役割」より)

「川原/日本語のラップにおいて韻を定義する際、「母音が揃っていること」とされるのが一般的です。たとえばRhymesterの代表曲『B-Boyイズム』の有名な韻、「磨く [migaku]」と「美学 [bigaku]」の韻は、[1...a...u]というふうに母音がすねて一致している。けれども私はラップの分析を始めて、母音だけでなく子音の使い方が興味深いと気づきました。これに気づいたのがMummy-Dさんの曲を聴いていたときのことでした。聴いていた曲は、DI HASEBE feat.Zebra & Mummy-Dの『Mastermind』です。その中で

   煙たがる隣のブスと
   挨拶交わす俺はモラリスト

 というフレーズがある。ここでは[suto」が小節末で共通している。子音も母音も一致している例です。この部分を聴いたときに「韻を踏むというのは、母音だけのことじゃないな」と確信を得ました。さらに、次の韻はもっと衝撃的でした。

   ケッとばせ
   ケッとばした歌詞でGet Money

 ここでは「ケッとばせ」= [kettobase]と Get MOney = [gettomane]で韻を踏んでいます。
 (・・・)
 すべての子音のペアにおいて、音を出すために使う器官が一致しているんです。」

「川原/今の例を考えると、英語の単語は英語のまま発音しても良いし、「日本語っぽく」発音しても良い。どのような韻を踏みたいかによって使いわけられる。これは日本語ならではの利点とも言えます。」

*(川原繁人『日本語の秘密』/「第2章 日本語ラップと言葉の芸術 Mummy-D」
  〜「日本語ラップにおける韻の手法の確立」より)

「言語学的な制約を乗り越えるかたちで、日本語ラップでは単語のすべての母音を合わせることで韻を聴き手に知らせる手法が生まれてきた。」

*(川原繁人『日本語の秘密』/「第2章 日本語ラップと言葉の芸術 Mummy-D」
  〜「音節を使って母音を圧縮する技術」より)

「川原/対談の冒頭で、日本語はやわらかい語感があるから、ラップに不向きな面があるとおっしゃっていました。その中で日本人ラッパーたちはどうやって日本を「硬質」な音として聴かせる工夫をしてきたのでしょうか。

 M/日本語では母音を揃えて韻を踏むという基本は先輩たちがすでに実践していた。俺たちの世代は、それを土台にして日本語ラップのリズムを改善したいと試行錯誤しました。それまでは日本古来の七・五調のラップが多かった。でも、もと違う新しい可能性があるんじゃないかyと模索し始めた。たとえば、裏拍(拍を前半と後半に分けたうちの後半の部分や四分の四拍子の曲で「1と2と3と4と・・・」とリズムを取ったときの、「と」の部分)やハネ(音符を弾ませて発声する技法。「タッタタッタ」というリズム)を強調したり、音節を圧縮する方法を考えた。

 川原/「音節を圧縮すうる」という考えに関して、私も興味深く思っていました。日本語における音節というのは、基本的には子音1つと母音1つが合わさった塊です。でも、母音を2つ重ねた[ai]という音は、1つの音節としてまとまることが言語学的にわかっている。文字にすると「あ」「い」と分かれるので音節が2つ必要だと思ってしまいますが。Dさんのラップを聴いていると、一音節として[ai]という韻を踏むと、徹底的に[ai]の音を崩さない、という気付きがありました。つまり[ai](愛)と[aki](秋)では韻は踏まないんです。具体的な例を挙げると、『Do What U Gotta Do』(Zeebra feat. AI,安室奈美恵&Mummy-D)での歌詞でこんな部分があります。

   Alright,ならまた違うスタイルで
   フロウすりゃ Fake とは見間違うまい
   壁に直面中? ならしな迂回
   または一点突破オレら Hip Hopper と味わうかい?
   (中略)
   Yo,Mr,Dynamite もう待たしちゃいらんない
   摑め Mic このシンフォニー

 (・・・)

 言語学者ならともかく、一般の日本人で[ai]が1つの音声にまとまることを意識している人などいないと思ってましたから、この発見は驚くべきことでした。」

*(川原繁人『日本語の秘密』/「第2章 日本語ラップと言葉の芸術 Mummy-D」
  〜「俵万智とMummy-Dの意外な共通点」より)

「川原/今の話は俵さんの感覚とも共通しています。Dさんは「あい」という母音が並んだときに、その母音連続をひとつの音節に押し込むことがあるとおっしゃいました。俵さんも、音節としてひとつにまとめられるものはまとめて、聴覚上は字余りではないような短歌を作ってらっしゃることがあるんです。

 M/それは意外です。短歌の馬合は完全に字面の数で文字数を捉えているんだと思っていたけど、そこまで意識してやっているんだ。」

*(川原繁人『日本語の秘密』/「第2章 日本語ラップと言葉の芸術 Mummy-D」
  〜「字余りについて」より)

「川原/もうひとつ気になるのが、韻における字余りです。つまり小節末に対応する母音がないことを許すかどうかなんですが、Dさんはあまり字余りをしていない印象があります。字余りを許すのは、限られた条件が揃ったところだけ。そして字余りを許容するにしても、ほぼ[u]しか許さない。」

「M/「何々です」「何々をします」という馬合の「す」って、[su]とは発音しないよね。[des]とか[mas]としか発音していない。だからこういうケースでも最後の「す」は子音扱いをする。他の音と並べるなかで、小さめに発音しないと違和感が出てしまう。

 川原/いわゆる「母音の無声化」というやつですね。」

*(『マチネ・ポエティク詩集』〜安藤元雄「『マチネ・ポエティク詩集』について」より)

「ここに復刊された『マチネ・ポエティク詩集』は、一九四八年(昭和二十三年)七月一日を発行日として、東京の溜池にあった真善美社から出版されたものである。(…)これは実に過激な、時流に挑戦する大胆さと泥くささをもった書物でもあった。というのも、ここに収録された作品はことごとく、日本語による押韻定型詩だったからである。「マチネ・ポエティク」は集団の名であり、その命名者は同人の一人だった福永武彦だったそうである。」
「巻頭には「詩の革命」と題する押韻定型詩のマニフェストが高らかに掲げられ、巻末には「NOTES」と題して、グループやこの詩集の成り立ち、ここで用いられている技法の解説などをしるした一文が添えられている。どちらも無署名の文章だが、実は全社は中村真一郎がすでに雑誌「近代文学」第十三号(一九四七年九月)の巻頭に発表していたものであり、また後者は、この詩集の著者代表として奥付に名を出している窪田啓作の執筆だと思われる。
 それにしても「詩の革命」とは、何と激しい揚言ではなかったか。短歌の誕生、連歌の誕生、新体詩の誕生を、それぞれ日本の叙情詩の歴史を区切る三回の革命であったと位置づけた上で、「千年にわたる我々詩人たちの夢であった」ところの「厳密な定型詩の確立」をもって第四回目の革命を遂行しようというのだ。」
「考えてみれば、リズムと言い脚韻と言い、すべて時間を切り取るための工夫だった。そうやって切り取られた時間が、言葉によって生み出されながら逆に音楽性の面から言葉を支えるときに、その作品は定型詩として初めて成功する。これが詩語の保証なのだ。完璧な押韻アレクサンドランで書かれた無味乾燥な駄句はフランスにも無数に存在する。要は詩というもの、そしてとりわけ押韻定型詩の、このおよそ別世界的なあり方が、語法それ自体の統一的な構造性とどこまで一体化し得るかにかかっている。それが詩的レアリテと呼ばれるものであり、また、詩の自律性と呼ばれるものであろう。
 「マチネ・ポエティク」の実験は、押韻は音節の数的位置については精密な考慮を払ったが、アクセントや速度、音価、さらには発語の位相といった要因への配慮が、おそらくは不十分だったのだ。そのために、言葉の置き換えの可能性が、ほとんど恣意的なものと化してしまった。そして、故意にせよ偶然にせよそうしたものへの配慮が払われたときにだけ、存在感のある作品を生み出し得たのである。
 とすれば、「マチネ・ポエティク」の試みは、本当にわれわれ自身のものである詩語を何とかして確立しようという、新体詩以来の執拗な、しかしいまだに実らない努力の、長い系譜上に位置づけられることになる。この「革命」の流産を惜しむことはできても、それを歴史からはみ出した狂い咲きとみなすことはできない。復刊された「マチネ・ポエチック詩集」は、いななお検討さるべき問題点を数多くはらんでいる。「革命」はまだ成就していないだけだ。」

*(『九鬼周造全集第五巻』〜月報5 中村真一郎「『日本の押韻』とマチネ・ポエチック」より)

「九鬼周造博士の「日本詩の押韻」という論文は、日本の貧しい詩学の歴史のうえで、劃期的な業績である。
 にも係らず、哲学者−−−−それも博士の周辺のひと握りの同情者、あるいは崇拝者−−−−が、それを博士の偶然論の一適用であるとして、専ら哲学的な関心を示したにとどまり、詩人たちのなかには真面目な関心は惹きおこさなかった。真面目に研究して評価したのは、戦争直後に押韻定型詩運動を行った、東京のマチネ・ポエチックグループだけである。(ただし、同人の詩の大部分は戦前、戦争中に、既に出来上がっていた。)
 マチネ・ポエチックの仲間は、専ら実作を発表するに急であって、日本語で押韻が可能なりやという理論的考察は、博士の論文に任せたままであった。云うまでもなく、いかに理論が精緻であっても、実作が失敗してしまえば、押韻は有効ではないということになってしまうのである。
 マチネ・ポエチックの運動は数年にして止んだ。私を含めてその仲間は、活動の舞台を散文の領域に拡げて行くことになり、押韻の実験も中絶したままになった。そして当時を知る人は、その運動が詩壇のなかで、四面楚歌だった。ほとんど悪罵の超えに埋もれて終った有様を、今も記憶しているだろう。しかし私自身の定型詩集も、その後、二度にわたって再刊され、又、『マチネ・ポエチック詩集』も、最近になって三十年ぶりに復刊されて、また人々の手にわたるようになった。私たちの定型詩運動は、ようやく再評価の時期を迎えはじめたのである。
 一方で、「日本詩の押韻」を含めた、九鬼博士の全集が、これまた刊行中である。興味のある者は、理論と実作とを並べて検討することが、容易に可能となったのである。
 この時期に、実作者のひとりであった私が、私たちの実作と博士の理論との関係について、一言、誤解を防いでおくことは、意味があるだろうと思う。」

*(藤田正勝『九鬼周造』〜「第六章 文学・詩・押韻」より)

「九鬼は、押韻は語呂合わせや地口の類いの遊びにすぎないという、自由詩の立場から押韻詩に向けられた批判を十分に意識していた。その批判を十分に意識した上で九鬼はむしろ「言語の音響上の偶然的関係に基づく遊戯」を積極的に評価したのである。(…)「日本詩の押韻」のなかの「遊戯を解しない者は芸術の世界に入る資格は無い」という言葉がそのことをよく示している。
 そのように述べたあと、九鬼はまた次のように記している。「押韻は音響上の遊戯だから無価値だと断定するのは余りに浅い見方である。我々はむしろ祝詞や宣命の時代における「言霊」の信仰を評価し得なくてはならない」。ここで「言霊」がもちだされたのは、江戸時代の国学者・富士谷御杖(一七六八年−−一八二三年)の歌論書『真言弁(まことのべん)』(一八〇二年)を念頭に置いてのことであった。
 富士谷御杖はこの書のなかで必ずしも歌を遊戯と捉えていたわけではない。人は誰しも思いのままに行為しようとする偏心(ひとえこころ)をもつが、それを抑えきれず、それが一向心(ひたぶるこころ)になったときに、それを慰め、悪しき行為へと走らないようにするのが歌であるとしている。そして『真言弁』下巻の「言霊の弁」において、「一向心を慰めようとして生まれでた歌のなかに、そのやむをえない思いがとどまり、そのなかにこもったものが「言霊」であるとしている。それを「言霊」と呼んだのは、そこに人の力では及びえない「活用の妙」があると考えたからである。御杖はその例として、『古今和歌集』「仮名序」で言われる「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むる」働きを挙げている。
 九鬼がこの書に注目したのは、そこで「すべて、物ふたつうちあふはづみにおのづからなり出るものは、かならず活て不測の妙用をなすものなり」と言われていたからである。「物ふたつ」という言葉のもとに御杖が理解していたのは、歌詠む人の「私」なる思いと、時宜にかなわぬ行為をすべきではないという「公」の思いとであったが、九鬼はこの「物ふたつうちあふはづみ」という表現のなかに押韻の遊戯を、つまり、音と音とがたまたま重なりあい、共鳴しあうという偶然の戯れを見たのである。
 その戯れが生み出す「音楽的可能性を発揮させて詩の純粋な領域を建設する」ことが、九鬼のめざしたものだったと言えるであろう。」

□川原繁人『日本語の秘密』【目次】

第1章 言語学から見える短歌の景色 俵万智
言語学者に作品を分析されるとは!?/頭韻の効果/連濁の不思議/句またがりという技法/日本語の美しさとは/視覚的になりすぎた日本語/制約は創造の母/子供たちのことばと心が空洞化している/言葉は親が与えられる最高のプレゼント ほか

第2章 日本語ラップと言葉の芸術 Mummy-D
言語学者とラッパーの出会い/日本語ラップにおける子音の役割/音節を使って母音を圧縮する技術/俵万智とMummy-Dの意外な共通点/アクセントとどう向き合うか/ラップのメッセージ性/ラップは言語芸術か/教育現場にも有効なラップ ほか

第3章 人間にとって「声」とは何か 山寺宏一
ドナルドダックから銭形警部まで/自分の声を好きになるために/エヴァンゲリオンでの「間」の取り方/声優の「ガンダム理論」/吹き替え映画のタイミングをどう合わせるか/声優からみた日本語と英語の違い/ドナルドダックの声にはどうやって辿り着いたか/AIは感情を表現できるか ほか

第4章 言語学の現在地 川添愛
言語学の分野はこんなにある/チョムスキーの「普遍文法」/言語学研究の面白さとは/外国語学習にも有用な音声学の知識/言葉の意味の多層性:論理的な意味と論理的でない意味/AIは人間の代わりになりうるのか/正しい日本語なんてない/知れば知るほどわからなくなる ほか

□川原 繁人
1980年、東京生まれ。慶應義塾大学言語文化研究所教授。2002年、国際基督教大学卒業。2007年、マサチューセッツ大学にて博士号(言語学)取得。ジョージア大学助教授、ラトガース大学助教授を経て現職。主な著書に『フリースタイル言語学』(大和書房)、『音声学者、娘とことばの不思議に飛び込む』(朝日出版社)、『なぜ、おかしの名前はパピプペポが多いのか? 言語学者、小学生の質問に本気で答える』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、共著に『言語学的ラップの世界』(東京書籍)など。

◎MASTER MIND feat.zeebra,Mummy-D /DJ HASEBE

◎Zeebra / Do What U Gotta Do feat. AI,安室奈美恵&Mummy-D【Official Music Video】
2006年リリース4thアルバム「The New Beginning」に収録の「Do What U Gotta Do feat. AI,安室奈美恵&Mummy-D」のMusic Video
Written by Zeebra, Ai, Mummy-D/ Produced by Zeebra/
Al appears courtesy of Universal Sigma, A Universal Music Company/
安室奈美恵 appears courtesy of AVEX ENTERTAINMENT INC./
Mummy-D (from Rhymester) appears courtesy of Ki/oon Records Inc.

〈Do What U Gotta Do〉

上がれ Bad boys Do what u gotta do
もっとガンガン勝って光って
上がれ Ladies Do what u gotta do
時間の無駄 ただ待っていたって
上がれ Bad boys Do what u gotta do
出来る事からやってみなって
上がれ Ladies Do what u gotta do
いっそこのまま 全部いただこう

いただこう (Oh!)
いただこう (Oh!)
いただこう 楽勝!

いくぜ Party people しめなトランク
準備万端 満タン ド派手なファンク
こいつはノンストップ あがれ Hot Spot
こいつで Bounce すれば気分はトップスター
叫べ (What, what) さあ皆上げてけ今日から
(What, what) ガツンとカマしなSoul Power
U gotta do what u gotta do
悩んでたってさ 始まんないぜson Come on!
Hey yo Mummy-D So if u down with me
掴めMic このシンフォニー

Who me? 一二三でマイクロフォン掴んでいい風味出す
A,B,C to D 蹴散らすそこらのB級品からC級品
I'm Sorry 数段上のこのライムストーリー
ぶってゲットするギャランティー そいつがMy J.0.B
DopeなBeatsに傾倒しちゃいるが振らない星条旗
こいつで成功しても瞑想し保ってくぜ平常心 You see?
ならHow about you? What U gotta do
したいことあんならNo.2よりNo.1だ
ほら待ってないで手上げてみな高く Come on!
さあ飛び跳ねろ 床抜かし屋根持ち上げろ Hook!

上がれ Bad boys Do what u gotta do
もっとガンガン勝って光って
上がれ Ladies Do what u gotta do
時間の無駄 ただ待っていたって
上がれ Bad boys Do what u gotta do
出来る事からやってみなって
上がれ Ladies Do what u gotta do
いっそこのまま 全部いただこう

いただこう (Oh!)
いただこう (Oh!)
いただこう 楽勝!

「私 ムリっっ」ってそんな考えいらない!!
全部とっぱらって「私できる!!」
そっちの方がイイ!!
少しずつ前に進もうよ!!
Get up on your feet!! 1, 2, 3!!
くり返し Do that thing
Get up on your feet!! 1, 2, 3!!
くり返し 何度でも!!!
Oh yeah…Do what you gotta do right now baby

Alright,ならまた違うスタイルで
フロウすりゃFakeとは見間違うまい
壁に直面中? ならしな迂回
または一点突破オレらHip Hopperと味わうかい?
You say (What?,What?) でもその先のコースなら
(What?,What?) 自分で探しなSoul Brother
U gotta do what U gotta do
差し当たってまず立ち上がってDance,You see?
Yo,Mr. Dynamite もう待たしちゃいらんない
掴めMic このシンフォニー

OK じゃあ すっ飛ばそう
ゴールはまだずっと向こう
息切れたら休みゃ良い まあ良い
今日は見せるぜぶっ飛ぶショー
ペース配分? 馬鹿じゃねえ?
いつ死ぬかなんてわからねえ
自然の摂理にばっかは敵わねえ
だけどその前にぜってえ解らせる U know?
確かなフロー 確かな詩
確かなフォーメーションで
確かなショー 確かなビート
こいつが証明書 Yeah
大丈夫だ失敗したって
出来る事をしっかりやって
見返しな 立派になって
俺に出来たから皆にだって
OK じゃあ すっ飛ばそう
ゴールはまだまだまだずっと向こう
息切れたらもう一回休みゃ良い まあ良い
今日はこのままぶっ飛ばそう

上がれ Bad boys Do what u gotta do
もっとガンガン勝って光って
上がれ Ladies Do what u gotta do
時間の無駄 ただ待っていたって
上がれ Bad boys Do what u gotta do
出来る事からやってみなって
上がれ Ladies Do what u gotta do
いっそこのまま 全部いただこう

いただこう (Oh!)
いただこう (Oh!)
いただこう 楽勝!

☆mediopos-2143(2020.9.28)

☆mediopos-2143  2020.9.28 マチネ・ポエティクは 詩の革命を標榜した 短歌の誕生 連歌の誕生 新体詩の誕生に続く 第四回目の革命として位置づけたのだ その理論的背景には 九鬼周造が晩年に論じた「押韻論」があり ...

Posted by 土居 譲二 on Sunday, September 27, 2020


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