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【短編】旅人


「次何歌うー?…あ、これにしよ」
また合唱曲。この前も、その前も合唱曲だった。下着だけ着た彼女は、ボロいソファに寄りかかりポチポチとリモコンで新たな曲を入れている。この前来た時に歌ったお気に入り。まだベッドの上にいる僕は仕方なくマイクを握り直す。
 3600円。駅チカにあるラブホテルの、平日フリータイムの価格。僕は一人暮らしだったからわざわざ行く必要もなかったけど、単純に行ってみたくて安めのところを選んだ。そうしたら、想像より楽しかった。雰囲気を変えられることも勿論だが、一番はルームの中にあるカラオケである。随分と古いモデルで、カラオケ用の冊子に書いてある曲番号を打ち込むシステムだった。それが僕らにとってはノスタルジックであり、〈ラブホテルに来てカラオケ〉ってなんだか乙だな、なんてしょうもない気持ちにさせてくれる代物しろものだった。それから、だいたい1ヶ月に2回ほど、その安ホテルに行っては彼女のお気に入り部屋である302号室を取り、付き合っている男女らしいことをしたのちカラオケにきょうじるということをしている。

 「なぁ、なんでいつも合唱曲しか歌わねえの」
「え、音痴おんちがバレないからに決まってんじゃん」
「どんな理由だよそれ」
彼女は合唱曲ばかり歌いたがった。というか冗談抜きに合唱曲だけしか歌わないのである。卒業式で定番となった曲から宇宙のことを壮大に歌い上げる曲、母なる大地にめっちゃ感謝する曲や怪獣かいじゅうの曲なんかもある。そんな中でも、彼女は風にのって素晴らしい明日に向かう旅人の歌を好んだ。彼女曰く、「合唱曲ってさ、セックスみたいで良くない?交代ばんこで役割があって、お互いを支えて一つのハーモニーを作ってる感じが心地いいの」らしい。柄のある布生地を見て可愛いというような、僕のような男にはない感性の一つだろうか。全くわからなかった。
 中学・高校と合唱コンクールはあったがそこまで精力的に参加するタイプではなく、「ちょっと男子ちゃんと歌ってよ」とたしなめられる側だったが、意外と聞いたことがある曲はそれなりに歌える。歌うときは、サビでさえしっかりとソプラノとテノールにパート分けした。僕も歌が上手いわけじゃないので、クオリティとしては60点くらいの合唱を歌い続ける。それでも彼女は歌い終わると次の曲をそそくさと入れていた。



 友達から始まった関係は、いつしか恋人に変わっていった。明確な告白とかがあったわけではなく、でもお互いにそうだよね、みたいな感じだった。理由もなく会い、ご飯を食べ、デートにも行き、一緒に寝て起きた。普通の、ごく当たり前の付き合っている男女だと思う。二人の時間を過ごすようになって1年半、それなりにいろんな話もしたし、僕らだけの秘密も出来た。それでも、僕は彼女の本質を知るに至れなかった。心の奥底、と言ってもいいかもしれない。常に僕らの間に見えない壁———それこそアクリル板のようなものがあるような感覚。裸で重なっているのに、心は何重にもよろいを着ているようだった。でも、僕は彼女のそんなところが好きだった。周りにびず、時々空気が読めないようにも見えるが、やりたいことを突き詰めてやる姿は良い意味で飛んでいた。
 きっと彼女は僕がいなくても楽しく生きている。鼻が当たるくらい顔を近づけて喋っている時も、彼女の目はどこか遠くを見ているようで、ふと目を逸らしたら彼女はもういないんじゃないかとよく思うのだ。





 歌い終わると、彼女はググッと冷蔵庫に入っていた水を飲み干す。
「いやーっ、やっぱ素晴らしい曲だね。高校の合唱コンで歌いたかったの。でもうちのクラスは違うのが自由曲で選ばれてさ」
「“みんなすーぎたげーんぱく”、って替え歌するやつな」
「え、初めて知った。そんなバカなことやってるの男子だけだって」
アハハ、と笑う彼女はいつもみたいに素敵だ。彼女には言ってないけど、そういうことをした後の顔が、一番綺麗なのだ。

「ね、そろそろ時間だよね。帰ろっか」
そう言って彼女は僕を見つめる。その目に、僕は映っているのだろうか。すばらしい明日に、君と僕は一緒にいるのだろうか。まるで旅人のように、彼女の心は次の場所を探しているのではないか。それが不安で、この部屋にすがり付く。合唱曲を歌っている間は、君と本当に重なっていられるから。
「うん、また来よう」

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