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変えられることを変えていくんだ

はじめに

さあ、本日二本目の投稿です。

なんか書き足らなかったので、思うままに書いてみます。

僕が就活の時に苦しんだ心の中とその時、どうやって解決したかなど書いています。

結果から言うと、承認欲求のお話です。

ネガティブもしくは人の目がすごくきになる人は何かの役に立つかも。

では、始めていきます。

承認のためにしか生きられない自分に嫌悪した日

何度か書いているんですけど、僕は就職活動を通して、自己分析というものにかなり真剣に取り組みました。

僕の大学は結構なマンモス校ですが、自己分析の量で言えば、おそらく1番じゃないかなと思うくらいしました。

※この量が気になる方は、自分の最初の方の投稿見てみてください。

自分自身の過去、現在と真剣に向き合った結果、もともとあまり好きでなかった自分のことをますます嫌いになる事実にぶち当たりました。

ワードとしては、承認欲求。

他者に認められたいとかそういう欲求が強すぎたことです。

自分のすべての行動は、承認欲求のため、もっと言えば、自分が純粋に評価されたい、認められたい、そういう自分本位な欲求のためでした。

例えば、

友達が多く欲しかったのも友達が多いという自分を作りたかったから。

彼女が欲しいと思ったのも彼女がいるというステータスが欲しかったから。

いい大学に行きたかったのも、テストでいい点数とりたかったもの、部活で活躍したかったのも、英語を始めたことでさえ、自分が認められたかったからです。

こういう評価のためでしか生きていけていない事実に絶望しました。

それは自分の人生を歩んでいないからです。

アドラー心理学をもいいた著書で有名な「嫌われる勇気」という著書をちょうど読んでいた時期で、この著書によれば、「承認欲求に任せて生きる行為は他人の人生を生きる行為である。なぜなら、他人の評価や承認は自分ではどうしようなもないことであるから。」と書かれてありました。

まったくもってその通りで、

他人の評価など自分自身ではどうやってもコントロールできないもののために、人の顔を気にし、評価を気にし、自分の行動を変え、生きてきたこれまでの自分の人生。

本当に自分が嫌になった。

それが去年の4月頃のお話。

承認欲求で生きていいんだと気づいた

自己嫌悪の中でも自己分析はひたすら続けました。

毎日、自分でも気づいていなかった新しい自分の嫌な所がさらされ、こんなものが本当に就活の役に立つのかと疑心暗鬼になりながらも、ひたすら取り組んだ。

ある日、何かの拍子に偽善という言葉の意味について深く考えた。

僕がこれまでやってきた承認欲求に任せた見返りを期待した行動のことを偽善と呼び、自分は偽善者だなと思ったりしていたから。

偽善、言葉の通り、偽の善意。

ふっと思ったのは、偽の善意って善意の対義語っぽく感じるけど、偽善=悪意ではないんだなと気づいた。

なぜかドラマや映画で、悪口のように偽善者と使われるものだから偽善とは悪いことのように刷り込まれていたことに気づいた。

別に偽善って悪くないんだ。

むしろ、どちらかというと良いことなんじゃい?と思った。

行動の動機が不純なだけでそれによってもたらせる結果は、本当の善意によって起こされる結果と同じじゃんと気付いた。

自分は間違って自分の人生を生きてきたように感じていたので、この思考にはすごく救われた。

別に承認欲求で生きることは悪いことじゃない。

例え、見返りを求めたとして、結果として善の行為をしていればいいんだと思った。

そこから、少し楽になった。

承認欲求だろうと、自分本位な理由だろうと、利他的な行動をしていくことが大事だと気づいた。

結果として、それが自分が承認欲求から抜け出すためのステップだと思った。

自分の欲求を満たすという利己的な利他行動を行うことで、自分の感情が満たされ、承認欲求を超えた場所にいけると思った。

利他行動をやることで自分の感情が満たされると仕組み的に理解したことで見返りを求めることも少なくなった。

だって、これは自分がいつか満たされるための投資だと考えるようになったから。

思考が変わって、楽になった。

もちろん、本当に大変だったときとかは期待してしまうときもあるけれど、今は自分で自分を納得させられているからそれでいいと思う。

承認欲求を利用して承認欲求を超えていきたい。

まとめ

そういう風に思って、早いもので1年がたった。

就活もうまくいき、自己分析をやってよかったと思っている。

昔、ふっと今日の投稿のようなことを思っていたことを思い出し、今回、そういう投稿にしてみた。

少し、昔の自分に戻ってきていたので、これを戒めにもう1度利他行動をやっていきたい。

本当に中二病みたいだけど、僕は昔から完璧になりたかった(笑)

たぶんいまでもそう。

容姿も運動も人付き合いも恋愛もオシャレも仕事も何もかもができる

 パーフェクトヒューマン を求めていたんです(笑)

だから、

人と自分を比べ、自分にないものを羨望し、劣等感を感じ、生きてきた。

明るく振る舞え、みんなの輪の中心にいる人に、

自分の考えに自信を持ち、絶対に曲げない人に、

そういう人になりたかったけれど、どうも無理みたいだから、自分なりのやり方でどうやったら自分の人生が上手くいくか模索していきたい。

神よ、変えられることは変えられる勇気を、変えられぬことを受け入れる冷静さを、そして、この2つを見分ける知恵を与え給え

アメリカの神学者の言葉です。

変えられないことを受け入れられるように、知識を身に着け、そして、変えられることを変えていこうと思う。

では、今回は終わり

また、いつかー

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