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『ノルマル17才。』 鑑賞・舞台挨拶・出演者と話した感想①【ADHD(&ASD)持ち】


「私、熊本にずっと住んでたんで、
こうやって舞台挨拶の後に直接監督とお話できるなんて、初めてのことで、
すっごい嬉しいです!」

…なまらんかった(笑)
UPLINK吉祥寺のアーティステックな
劇場ロビー。
楽屋から出た監督の北 宗羽介さんに、私は駆け寄って気づけば夢中でそう話していた。

       ☆

【映画感想】-少しネタバレ有り-

朱里(じゅり)と絃(いと)。
多動型と不注意型のADHDをそれぞれ持った、ダブルヒロイン。
不良(?)と優等生の女子とある。

こうして青春映画の題材として、
ありそうでなかった企画を出して頂いた、脚本家の神田凛さんに感謝。

実写なんだけど、どこかファンタジーぽい出逢いシーン。
まさに漫画原作を実写化したような、
ザ・青春映画だ。
でもADHD同士なら現実でも、
当たらずしも遠からず…な気も、
しなくはない。
実際に、漫画家にもADHD持ちが少なくないのだ。

私個人としては、
その甘酸っぱさもすっかり通り過ぎ、
経験値上げ上げの営業系な
自分の初対面の振る舞いが増え続け。

そのサバけた反動から、ギシギシと
どこか痛みも、人間関係の中で、
時折うずいてきている大人になって
久しい。

だから久しぶりに綺麗な鏡に自然光が降り注いで、
『あなたも元々こうなんだよね』という、すっぴんの心を…映し出しされた…のかなぁと、書きながら思った。

ふふ、昔の自分が妄想していたみたいな、楽しいファーストコンタクト。

そんな現実とファンタジーの交錯を地でいくのを認めながら、
ADHD持ちとしてはこんな世界観を持ってる事に、まず触れて頂いた気がした。

そう、ADHD(ASDもだけど)持ちは、社会に垂れ込みべっとりとした重い
人間不信のアメーバ達から、
解放されようと日々奮闘している。

そして、“ADHD同士”はとにかく
つながりやすい。
定型発達のスピードなんて、
待ってられないと言わんばかりに、
ネットワークが早々に広がってゆく。(笑)

余談だけど2018年頃、
“女性の発達障害について”のシンポジウムに、一緒に行って頂いた初対面の女性議員から、
内容が進むうちに「ADHDがファンタジーの住人(by神尾陽子さんの説明)て、なんか可愛い。
赤毛のアンみたいですね〜(^o^)」と、笑顔で言われた事があった。

その時、積み重なった自己嫌悪や自責モードから立ち直り、
エピジェネティクスで久々に眠ってた遺伝子が、オフからオンに切り替わろうかというほど、
目の前がキラキラしはじめ、
ほっとさせられた。

この映画も理解をさり気なく示される事で、あの時のように、ほわほわとした安心感を序盤から与えて頂いた。

また知らず知らず多数派に合わせて、合わせることにこだわり、
歓びが沈殿し切り、いつしか心にコリが起きてて、こわばっていたんだなと気づいた。

        *

映画は、全国の学校でも上演されるのかというほど、終始素朴で爽やか。

UPLINK吉祥寺のようなこっくりとしたミニシアターでも、
大衆娯楽のチェーン劇場でも、
学術講演交えたホール系の上映でも、どこでもOKなように、
オールラウンド型に仕上げられていて、シンプルでセンスの良さが際立つ。

短編としての、ほどよいまとまり感がある。

だから当事者からしたら、
よくぞこの内容を凝縮してここまで短時間でというほど、そのスピードと、てんこ盛り感にも感謝で泣いていた。

そのスピードで発達障害週間の最後である、今日2024年4月8日に観させて頂いた……というこの上ない嬉しさ。

関係者の皆様のこの行動力には、
まさにADHDをテーマにしたという
“プライド”すら、感じさせて頂いた。

本当に誠実でインパクト大の、
“今年”のプレミアなイベントとして、
時代の進歩を大拡声器に乗せて、
告げて頂いた。
感謝。感謝しかない。

       *

私はどちらかと言えば、“絃"のように
優等生として生きてる時間が長い。
30代でようやく降りた診断も、
『不注意優勢型』。
でもその時間の多くは、うつっぽさやあきらめも少しあるかな…。

劇中で絃が自分で言うように、
たまたま勉強に集中できるし、
勉強が好きで、しかも絃ほどの大きなしくじりも普段はなかったような、
学生時代前半。

一方で他にいたADHDっぽい
周りの学友達から感化され、
自信を得て憧れに満ちあふれて、
バリバリ行動してた一時期は、
決しておしゃれではない(笑)
“朱里”っぽさが、全面に出ていた。

自室も服とかじゃなく、優等生だったのに大量のプリント類や本や物が散乱していて、足の踏み場がなかった。

夜は遅く朝起きられなくなったり、
ご飯食べないほど過集中したり、
授業を遅刻したり、
スケジュールミスで単位落としたり、
アイドルにはまったり。

絃のママが心配していたのは、まさに絃が私のようになることだったろう。

でもその頃の私は、逆にすごく主体的に動いていたし、生き生きしてて
自分に自信を持っていたし、
アグレッシヴで使命感に突き動かされていた。

そして、初対面のお店の人にもどんどん話しかけていたし、
そこで話を広げ深堀りしていけたのは、『人間が好き!』て感覚に満ちあふれていたからだ。

けれど、それで誤解されまくって
縛り抑えられ、
抵抗しようにもついにエネルギー切れした後にうつ病になり……休学。

そこからは、元気になっても再び“絃”に比重を置くようになった。


それでもまだ、私の中には、
絃だけでなく朱里もいる。

この社会を渡るには、確かに“絃”の比重を大きくすると、
一見上手くいくことのほうが、多い。

多数の他人や社会から求められるのも、時に都合よく自責モードに入ってくれて、都合よく謝ってしんなり折れ続ける、秩序に忠実で自信なさ気な、絃のような女性像だったりする。

だけど、それがどこかの地点で、
過度に縛られた封建的な奴隷になりやすいのも、ずっと昔から朱里のように感じていた。

そう、朱里のような子を周りで見かける度に、はじめは無邪気に共感していたものの、徐々に勉強ができる『らしさ』との引き換えが始まった。

朱里のような人に対する憧れは、
私の場合は微妙な「苛め」で傷つき、
警戒心へと変わっていった。

憧れを悟られまいと「さげすみ」を、
どこかで自分に暗示しながら、反面、
どこかで朱里の内から放たれる、
まぶしくて、花火のような閃光の輝きの真っ白さに憧れ、惹かれ、妬み、追いかけ、恋い焦がれていた。

だから、きっかけをつかんだ学生時代後半。

積もり積もったアメーバ達の呪縛を
解き放つように、
思いっきり、自信満々!喧嘩上等!
くらいの“朱里”のほうへ、
徐々に、私はシフトチェンジした。

朱里の言動にも、懐かしさを覚えるし、朱里の良さに素直に憧れる絃の気持ちがよく分かった。


映画後半からは、そうして朱里と絃の双方の想いが、
代弁しすぎるほど代弁していて、
涙が次から次にあふれていた。

たくさんの赤の他人が、
赤いシートに座って観ているUPLINK。

その会場がどこか長年、同じ商店街にいた知り合いばかりのような気がしてきた。

そしてまるで、私に直接話しかけられてるようで、
「うぅ…」「ひっく」と声が漏れながらぐしゃぐしゃの顔で泣いていた。

39歳の今に訪れた、青春の一コマ。

映画が終わった後、会場の全員で打ち上げするかのように、なんと拍手が沸き起こった。

こんな映画体験も、生まれて初めてだった。すごい。すごいよ!この映画!

このために遠くそれぞれの場所にいながら、伴走してきた人達が、
ようやく時と場所を分かち合った。

そして、ここからまた持ち場へと戻っていくけど、今までより大きな存在感が支えている。そんな感じ。

       ☆

「私、実はこの発達障害啓発週間に合わせたように、『ADHDだからって、気持ちはわかるけど…』という見出しの、ある動画があげられたのを観てしまって、コメント欄も見てADHDヘイトだって確信し、ショックを受けました…。

映画の中で朱里が責められてるように、時間の感覚が違うってことを、
『なぜアーティストは生きづらいのか』という本も読んで、
朱里のセリフや行動に共鳴していました。

共感していたYouTuberのチャンネルで、苛めとか不登校とか今まで取り扱っていてくれたチャンネルが、
ADHDには差別的なのは本当にショックで、通報もしました。

そんな事がある中を、このように映画を作って上演して頂き、
本当に励まされました。
ありがとうございました。」

そして冒頭の言葉に戻る。

確か、こんな事を唐突に長々と、
最初で最後のチャンスとばかりに、
監督の北さんにお伝えできた。

多分、びっくりされたと思うが、
悔いはなかった。

舞台挨拶の中で、北さん自身が、
「重度の発達障害ではないグレーに近い人達が、苦しんでいるところを、
伝えたかった。」旨を述べられた。

パンフレットを読んでも、
私と北さんは、似たような体験を人生の初期にしていた。

北さんは真面目にクリエイターの道へ進み、私はあれこれ顔を突っ込み、
学者になりそびれたまま、
ようやく声優などのアーティスト業へ舵を切り始めた。

北さんという中心軸は、
目の前にすると台風の目のように
穏やかで、ひたすら引力があった。

監督だけでなく、プロデュースに
共同脚本も、同時進行で進められた。
この功績をどれほどの見る目がある人が、賞賛するかは正直、分からない。

でも、歴史に残る作品であることだけは事実だ。
青春は、決して過去にあるものではなく、今ここに繰り広げられるもの。

そう教え諭す、『教育家』としての永遠性を、後世の人達が正しく評価するに違いない。


       ☆

➁へつづく。

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