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10年越しの葬式 2人の祖父の死

高校生の時、母方の祖父が亡くなった。
葬式はセンター試験の前日で、冬の日だった。祖父の事は好きだったし思い入れもあっけれれど、その頃は自分の事に興味がありすぎて、いまいち悲しむ事ができなかった。
自分の将来や同級生の女の子の事で頭がいっぱいだった。それで祖父の死を直視出来ないというのは、いささか薄情過ぎると感じる。
その悲しめなかった経験が、僕の心を逆説的に傷つけ、それは暗雲の様に心に漂い続けた。

今28歳になって、父方の祖父も死に近づいている。
母方の祖父の死からちょうど10年だ。
父方の祖父は遠方に住んでいて、幼い頃の夏休みに年に一度、里帰りした時しか顔を合わせない。
しかし彼の思い出は、夏の日焼けの様に脳にこべりついている。
ずいぶんと我儘な子供だったはずなのに、彼は真意に優しく察してくれたと思う。
僕はそれを思うと、心に隙間風が吹いた様に物悲しい気持ちになる。
僕は自分の事を薄情な人間だと思ってきた。それはある種の傾向として正しい分析であると思う。しかし今回の悲しみが最終局面のオセロゲームの様に、その認識をひっくり返していく感覚がある。


心理学的な事は分からないけれど、歳をとって自分への興味が薄れていき、心にゆとりが産まれた結果だと分析する人もいるかもしれない。
しかしこの悲しみは逆説的に僕の心を温めてくれる。それってとても素晴らしい事だと思うし、この悲しみを与えてくれる祖父に感謝を贈りたい。

10年前の悲しみも合わせて、僕は悲しんで来ようと思います。


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