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「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔は西へ」

 身の丈七尺の大柄。左肩の上には塵避けの外套を纏った少女。入唐後の二年半で良嗣が集めた衆目は数知れず、今も四人の男の視線を浴びている。

 左肩でオトが呟いた。
「別に辞めなくたって」
 二人は商隊と共に砂漠を征き、西域を目指していた。昨晩オトの寝具を捲った商人に、良嗣が鉄拳を振るうまでは。
「奴らは信用できん」
「割符はどうすんの」
 陽関の関所を通る術が無ければ、敦煌からの──否、海をも越えた旅路が水泡に帰す。状況は深刻だった。

 口論が白熱する最中、遂に視線の主達は姿を現した。三つの怒声が行く手を阻む。子連れの旅人は野盗の好物だ。
 風と砂の声を拾ったオトが叫ぶ。
「後ろ!」
 不意打ちを謀った男の斬撃を避け、良嗣は裏拳を入れる。続く正面の男には掌打。暴漢達に膝を付かせる一方で、良嗣は間合いを読み損ねた。オトに迫る鞭打が外套を引き剥がす。
 刹那、野盗達の思考は停止した。
「見たなァ」
 背に傷だらけの翼。腰から下に羽毛。骨張った脚と鉤爪。
 オトは怯んだ男に跳び付き顔を裂く。同時に良嗣は残る男に迫り、腹を拳で打ち抜く。
 満身創痍の野盗達が逃げ去ると、オトは腕と翼で地面を指した。血と吐瀉物で潤う砂上に、割符が落ちていた。
「いいね、堂々と行こう」
 再びオトは肩に陣取り、きひひ、と笑った。

 陽関を抜けた先の世界は三色。天は蒼、地は黄金、狭間の山脈は白。
 壮麗さに魅入ったオトは、晴々しい心を声に込めた。それは梵唄の如く清らかで、遥かな霊峰にも届く妙なる音色。

 唄に聴き惚れる度に良嗣は思い出す。遣唐使船に潜んだ密航者、人頭鳥身の孤児との出逢いを。
「西へ行きたい、唄が呼んでる」
 彼女は耳にした旋律を微音で奏でた。唄声に惹かれた良嗣は食糧と名を与えた。彼女は音子の代わりにはならない。それでも良嗣は朝廷に背き、官位を捨て、傷付き飛べぬ迷鳥の止り木になると誓った。

 やがて、良嗣は砂漠の彼方から微かな輪唱を聴いた。

<続く>


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