見出し画像

【警告】数字より「文化資本」を伸ばせ

「早すぎた名著」を「百年の名著」に。 起業家、経営者、クリエイター、経営学者から賛辞を集める『文化資本の経営』を、NewsPicksパブリッシングがこのたび復刊します。推薦文をくださったのは異例の豪華8名。なかでも入山章栄氏は「一生、この本を傍に置く」「現代ビジネスの課題に完全に答える一冊」と大絶賛。伝説の名著から、一部を抜粋してお届けします。


豊かな文化資本をもった企業が伸びる

企業活動は文化を生産している

価値ある商品を生み出す企業の活動が、単に経済生産であるだけではなく、同時に文化生産でもあることはいうまでもありません。

ただ、ひと昔前の経営ではそれほど文化生産という観点は必要とされませんでした。それは第一に、文化は商品によってつくり出されるものではなく、学問や芸術の成果によってつくり出されるものだ、という考え方が強かったからだといえます。

たとえば、あまりたくさん売れない純文学小説は文化だが、大量に売れる大衆小説は文化ではない、とされた時代がありました。前者は商品価値が低く、後者は商品価値が高い。あまり商品価値が高いものは文化の名にふさわしくなく、文化というにしても通俗文化、低級文化である――そのようにみなされた時代がありました。

その時代、文化は商売にならないと考えられましたから、企業が文化を生産しているなどというのはきれいごとにすぎないとみなされるのが一般的でした。

しかしながら、企業が学者や芸術家とは別の領域で、さまざまな手応えある文化を生産し続けてきたのは疑いないことです。また、いまの企業にとっては、文化生産という観点はなくてはならないものにまでなってきています。人々が、商品やサービスについて、より文化的な満足の得られるものを求めるようになってきたからにほかなりません。

そのように、経済利潤を生み出す活動と文化を生み出す活動が、より切っても切り離せない方向へ動いていくところに、現代の経済社会の大きな特徴があります。にもかかわらず、これまで企業の活動といえば、経済活動の側面からばかりとらえられてきて、その文化活動の面からの把握がまったくおろそかにされてきました。それは企業自身にも、研究者にもいえることです。

企業にとって文化資本とは何か

同じことが企業の経営についてもいえます。文化生産が重要なテーマになってきたにもかかわらず、文化資本経営という見地で経営をとらえていこうとする研究は、いまだ本格的に登場しているとはいえません。

それでも日本には、いかにして文化を経済として成立させるかに、大きな努力を払ってきたといえる経営者も少なくありません。そこには、企業は単なる物資を生産してきたのではなく文化を生産してきたのだ、単なる物資を売ってきたのではなく新しい文化を育ててきたのだ、という自負があろうかと思います。その意味から、これまで築き上げてきた文化的な蓄積をどう生かすか、これからどのような文化的な蓄積を築き上げていくかは、企業活動の根本にかかわってきます。

企業にとって資本といえば、これまでは「経済的な元手」としてばかり考えることが多かったのですが、実際の企業活動はさまざまな文化的な蓄積をも資本としており、これまで文化資本経営を志向してきた企業では、特にその面が強いのではないかと思います。

そこで、これからの経営を考えるには、経済資本に対する文化資本、あるいは経済市場に対する文化市場という領域があることを検討してみることが、たいへん重要になってきます。

この文化資本という領域は、これまでの近代世界が大きく変貌し、経済の新たな水準が生まれつつある現在、しだいに顕著な動きを見せるようになってきています。

経済的・文化的・社会的な総合活動

文化資本経営とは何かをひとくちでいうなら、次のような多様な技術を総合的に生み出す技術だといってよいでしょう。

「異質な相反する物事を調整・接合して、一定のスケールで、固有なものに創造する調整技術・生産技術・創造技術を総合産出できる技術」

そもそも文化とは「異質な相反する物事の出合い」によって生み出されるものです。延々たる同質性の持続から文化は生まれることはありません。ですから文化資本経営とは第一に、そうした「異質なものの出合い」から生まれる文化を、自覚的な技術によって生成させていこうとするマネジメントだといえます。

文化資本経営はそうした総合的な技術であり、次のように文化的・社会的・象徴的であると同時に、経済的な総合活動でもあります。

どこにもなかった新商品、新サービス、新システムなどを生み出していくように、目に見えない何かを目に見える形にしていくという「文化化」
商品を社会的なスケールで普及していく「社会化」
信頼、誇り、尊厳や権威を表象する「象徴化」

ここでいう「象徴化」とは、ある実質のある物事が実態から離れて、象徴性をもって信頼や尊敬を得ていくことです。この象徴化がいいかげんになると信用を失うことにつながります。ですから、象徴資本としての働きを得るような象徴化がなされることが大切です。

たとえば、会社が危機に陥った時、社員や組合が進んで資財を提供したりして、自主的に働いて会社を再生させようという動きをするのは、象徴化の次元においてしっかりと象徴資本が形成されているためです。

経営はこのように、文化化、社会化、象徴化を形成しながら、それらを可能にする経済を動かし総合して、再び経済化を進めていきます。文化資本経営とはこの三つのプロセスに最も自覚的であろうとする経営だといえます。

文化資本経営はそうした自覚から、自らの経営を言葉で語り、表象し、場所をつくり、資本を形成していくものだといえます。そこで文化資本経営とは、「語り・記し・作り・育てる」ための、「アート・知識・設計・デザイン・資本」に関する文化的・社会的・経済的な総合活動をめざすものといってよいでしょう。
そこでは、自らの活動がどのような社会的影響をもちうるのかということに、自覚的な経営がなされるようになるでしょう。

経営活動の活性化を可能にするのは文化資本の働きである

以上は、各企業が実際の経営活動でさまざまに実践していることにほかなりません。ただ、このように経営活動に照明をあててみますと、経営の中心的な活動が「すでに構造化されているある潜在性を顕在化させていくこと」にあることが、よくわかると思います。つまり、「見えないものを見えるようにしていくこと」にほかなりません。それは文化化、社会化、象徴化のすべてについていえることです。
こうした経営活動の活性化を可能にするのが文化資本の働きなのです。
これまでの企業活動のなかで構造化されてきた潜在的なものを、現実のものとして顕在化させていく―この「構造化する構造」のパワーが文化資本の本領です。ですから文化資本とはつまるところ、「異質な外在性を内在化して、新たな外在性として生み出すこと」(文化生産)の原動力なのだといえましょう。

文化資本の働きによって産み出された商品やサービスは、他の商品やサービスと重なる部分をもちながら、同時に重ならない部分をもちます。また他の商品やサービスとの境界を際立たせもします。そうした文化的な独自性を形づくることで価値を形成していきます。文化資本は、そうやって、まさしく文化的な魅力に満ちた商品やサービスを産み出していくところに大きな特徴があります。

どんな企業でも、歴史的な時間の経過とともに文化資本を蓄積してきています。

原初的な文化資本というものは、外在性を受け入れて、それを内在化することで形成されます。
これが第一次資本です。たとえば近代の初期に「欧米」という外在性を受け入れて、それを自らの内在性として形成したものなどがそうです。この第一次文化資本、いわば「生まれ」を土台にして、そのうえでさらに新たな外在性を内在化することで形成されるのが第二次文化資本、いわば「育ち」です。

この「生まれと育ち」を、さらに三次、四次というより高次の文化資本へと形成していくわけですが、これは経済資本のように無限に形成されていくものではありません。ある場所にふさわしい規模で限定されていくものです。文化資本がないと規模を見誤り、規模を見誤ると文化資本は崩壊します。

経済資本が文化資本の規模を超えて作用しはじめますと、組織や機構が解体してしまいます。
近年、日本でも有数の企業で明らかとなった粉飾決算や債務隠しなどの事態は、まさしくそうした規模の見誤りから起きたものといえるでしょう。

ですから、そのように経済倫理の問題として顕在化している物事については、経済資本の問題としてではなく、むしろ文化資本の問題としても考えていかなくてはならないでしょう。

「経済・文化・環境」の総合活動が存在するようになってきた

近代に生まれた産業主義の経済活動は、現在、活発化すればするほど、社会や文化、環境を壊すように作用する傾向をしだいに強めるようになってきています。そして、そうした事態に対して、これまでのように、あれこれとたくさんの規制を設けて乗り越えていこうとすることが、ほとんど何の役にも立たないこともはっきりしてきました。

はっきりいえることは、経済活動のあり方が従来の産業中心のあり方から根本的に変化していかない限り、破壊がやむことはないだろう、ということです。それならば、経済活動はどのように変化していくことが望ましいのでしょうか。

それについては、すでに根本的な変化への兆候が見えてきていることに注目しなくてはなりません。これまでの単一経済シテスムが崩れ出しているのです。この事態をとらえるには、次のように経済活動を三つの領域に分類して考えてみることが重要です。

経済資本、経済生産、経済市場
文化資本、文化生産、文化(経済)市場
環境資本、環境生産、環境(経済)市場

最初の「経済資本、経済生産、経済市場」は、いうまでもなく以前から存在していたものです。

次の「文化資本、文化生産、文化(経済)市場」は、すでに述べましたように、以前から存在していましたが、近年になってはっきりと顕在化するようになってきました。その次の「環境資本、環境生産、環境(経済)市場」は、環境を実際につくり出していく活動として、しだいにその重要度を高めてきています。

重要なことは、一つには「経済資本、経済生産、経済市場」だけではなく、「文化資本、文化生産、文化(経済)市場」が無視できない大きな展開をはじめていること。そして二つには、いまだ不十分ながら「環境資本、環境生産、環境(経済)市場」がようやく動き出したということです。

たとえば、緩衝材や梱包材を自然へ分解して環境にとけこむようなものへ替えたり、紙を大量に使用する企業が原材料としての樹木の再生産を活動に組み込むとか、あるいは地場産業が地域の環境条件と密接に結びついた生産を組織したりといった例が、身近に見られるようになってきています。

環境とは、その外部から働きかける「対象としての自然」ではなく、その内的なパワーの解放の仕方しだいで価値を高め、つまりよりよいものとなり、その価値を増殖させていくものとしてあります。この環境生産が文化生産と結合し、少しずつですが経済生産と結合しはじめている事態は、これまでにはほとんど見られなかったまったく新しい事態だといえます。

この新しい動きは、いまや近代から超近代への飛躍がはじまっており、文化・環境を含んでの「複合経済生産」という新たな水準が組み立てられようとしていることを指し示すものだと考えられます。この複合経済への飛躍は、経済利潤主義や労働価値論などに象徴される、これまでの単一経済の限界を明らかに超えていくものです。

実際に産業経済の社会化が進行し、市場経済の社会化が進んでいます。社会利益に反する経済のパワーはいま、最後の爆発期に入り、しだいに衰退へと向かっています。また、商品の多元価値化が進行し、消費社会が経済化し、それらが実際に作用しています。さらに人間行為の多様化が進行して、好みが個人化しています。そのようにして、市場は急速にこれまでの単一性を失いつつあります。

一つには、大量生産・大量販売によって経済が社会を覆っていく形が崩れていることが物語っているように、社会のあちこちで、単一経済の限界をあらわにするさまざまな現象が起きています。それらの現象は、複合経済生産ができあがりつつあり、そのベースが着々と敷かれつつあることを意味するのでしょう。

(本書『文化資本の経営』に続く)

福原義春(ふくはら・よしはる)
1931年東京生まれ。1953年慶応義塾大学経済学部卒業、資生堂入社。商品開発部長、取締役外国部長、常務取締役、専務取締役を歴任後、1987年代表取締役社長に就任。直後から大胆な経営改革、社員の意識改革に着手し、資生堂のグローバル展開をけん引した。社長就任10年を経て1997年取締役会長、2001年名誉会長に就任。企業の社会貢献、文化生産へのパトロネージュなどに尽力した。本業以外での文化的活動も多岐にわたり、なかでも洋蘭の栽培、写真は有名。東京都写真美術館館長、東京商工会議所副会頭、(一社)経済団体連合会評議員会副議長、(公社)企業メセナ協議会理事長、(公財)文字・活字文化推進機構会長、(公財)かながわ国際交流財団理事長など多くの公職を歴任。
栄典・受章は、旭日重光章、文化功労者、仏レジオン・ドヌール勲章グラントフィシエ章、伊グランデ・ウフィチアーレ章、パリ市名誉市民、北京市栄誉市民など。 本書のほかに、『部下がついてくる人——体験で語るリーダーシップ』(日本経済新聞社)、『ぼくの複線人生』(岩波書店)、『美 「見えないものをみる」ということ』(PHP新書)、『道しるべをさがして』(朝日新聞出版)など著書多数。
2023年8月、92歳で逝去。

目次
1章 文化経済の時代の到来 文化が経済の力になるとはどういうことか
2章 新しい経営アイデアが湧いてくる場所 近代的な知のあり方を超えて
3章 世界を丸ごとデザインできる経営を 日本語と日本文化がもたらすもの
4章 文化資本経営は新しい環境空間を演出する 経済活動に環境をどう取り込んでいくか
5章 新しい経営を切り開くビジョンとは何か コーポレート・ガバナンスとリーディング・ビジョン
補章 文化資本経営の理論