三村明夫日本製鉄㈱名誉会長と私の共通点とは??

恐れ多くも三村明夫名誉会長と私の風貌が酷似しているが、私は新日鉄㈱の最下級の管理職に過ぎなかった。自分の口から言うのも何だが愛知県下でトヨタ自動車の幹部にズケズケと物申せる大バカ者です。ある時、豊田市にある機械部品加工会社がトヨタのいじめに遭っており、トヨタのCSR室に事実確認の手紙を出しました。1ヶ月後に同社を再訪し、手紙のこととトヨタからの回答を提示したら、役員が「当社は潰される」と言って、顔面蒼白になりました。私は手紙の写しを見せて「御社のことは伏せてあり、ご安心を!」と言ったら、「ホッ」としていました。
さて、4月1日から13日の「私の履歴書」に三村さんの経歴が書かれており、その中に私との共通点もあるし、三村さんの凄い点も多々ありました。
出自は東京の高級料亭のボンボンだったが戦争ですっからかんになったので苦学しながら東京大学経済学部に入学し、金はなくて、部活にバイトに勉学に勤しんだ大学生活の思い出が綴られていました。
さて就職に際しては、工場見学に行ったNKKの現場を見て鉄鋼企業、それも2番手で伸びしろのある富士製鉄㈱を選んだ点は先を見る目があったようですね。永野重雄会長が新入社員一人一人に固い握手をし、その手の温かみに惚れたそうです。三村さんは新日鉄㈱の社長になってから、それを実践したそうです。

留学生活の裏話

元々留学なんて眼中に無かったが、八幡と富士の合併でハーバード大学に留学する羽目になった。八幡と富士の競い合いで留学制度がなかった富士は急遽、留学候補者を決めたので三村さんは英会話が不得手であった。米国では数人の学生同士でディベートするのが当たり前で日常会話にも四苦八苦していた三村さんは同級生を論破するために論理の整理に勤しんだそうです。この時の苦労はミッタルの買収交渉で役立ったと私は感じています。

留学後の苦労談

留学から帰国しても碌な業務が付与されず、会社を辞めようかと悩んだが、もうひと踏ん張りしようと思い直したそうです。

円高の影響で新日鉄㈱は左前になり、社員の数を75%カットする大合理化計画を検討する役目を付与された。本社経営企画部の部長代理と言う職位では重すぎる課題でした。その時に人を見る目が養われた。「上から3年、下から3日」と言う真理に気付かれたそうです。この時に高炉に手を付ける候補先は八幡、堺、広畑、釜石釜石、室蘭の5基であったが、室蘭は三菱製鋼との関係で生き延びた。「釜石や広畑の高炉に手を付けるな!」の大合唱に悩まれたでしょう。

トヨタとの暗闘

トヨタも円高不況の打開のターゲットとして新日本製鉄㈱との鋼材価格の改定(値下げ)を迫る中、鉄鋼としてはとてものめない交渉でした。三村さんは毎週、トヨタの本社を訪問して値上げの必要性を訴え続けました。
ただ、「トヨタの要求は呑めない」の一点張りでは交渉が進展しないので「トヨタの言い分に耳を傾け、その言い分の矛盾点を整理し、論理的な反論を整理し続けた」と言っていました。豊田市から東京本社に戻り、部下に状況説明をしながら反論案の検討を部下に指示する強行軍でしたが、三村さんの人柄に惚れた部下の頑張りの賜物か。三村さんの粘り強い説得にトヨタも軟化し、前例のない値上げを認めた。26回に及ぶ交渉に、そしてその論理正しさにトヨタも兜を脱ぎ、鞍ヶ池のレストランで慰労会をセットしてくれた。後にも先にも需要家(しぶちんトヨタ)からの接待はこれだけだそうです。長期交渉で得た値上げは妥結してもすぐに価格改定につながらない落とし穴があいていたそうな。

カルロス・ゴーンショックが待ち受けていた。


三村さんと私の共通点とは

1.三村さんの風貌が私にそっくりらしい。
2.幼少期は裕福な家庭で育ち、ボンボンだったようです。
3.三村さんは東大卒、私は産業技術短大と天と地ほどの差があるが、苦労
  して学問に励んだ点が似ている。
4.論理を尽くして、粘り強く交渉する点です。粘り強さは三村さんの方が
  はるかに強い。


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