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2024年の日記4(1/13-1/16)

1/13
これまでやってきたことを振り返りながら、これからやってみたいことを考えてみる。何となく朝起きて、そんな気分になった。

例えば、10年前の2014年に自分は何をしていたのか。
そこから更に遡ること20年前、まだ美大生だった3年生の頃から、長年続けてきた映像インスタレーションという、自分が最も得意としていた手法を、一旦脇において、今までやったことのない新しいことをはじめた年だった。
中古の8ミリフィルムカメラを購入して、これまでの作風と全く違う、ドキュメンタリー的な作品の制作をはじめる。頼まれたわけでもなく、唐突に。

当時32歳だった自分が考えていたことを正直に話すなら、自分が歳を重ねていった先に、映像インスタレーションをずっとつくり続けているイメージができなかったというのが、新しい手法をはじめた動機の一つである。
それは自分自身の「感性」が変化してきたことに、ある時に気がついてしまったからかもしれない。つづけようと思えば、あのまま同じことを繰り返すことも出来たけど、自分はその道を選ばなかった。

とにかく別の方法でアウトプットできる「器」が、未来の自分には必要で、最も形式的にフィットしたのが、ドキュメンタリー的な表現だった。
あれから試行錯誤を重ねながら、三つのドキュメンタリー作品(ややこしいけど、自分ではアート作品として捉えている)が完成した。幸運なことに、それらの作品群は実験作の範疇を超えて、現代美術作家として活動してきた自分の代表作として、世間にも認知されている。分かりやすく言えば、10年つづけることでマネタイズできる表現になった。

作家活動をはじめて、もうすぐ20年になるが、現在はインスタレーションと並行して、ドキュメンタリー的な映像制作が創作の基盤となっている。
そして今年からまた新たなことを始めようとしている。それが執筆であり、本づくりである。本をつくることを、インスタレーションやドキュメンタリーという既存の制作方法と同じくらいの水準で、自分の創作の基盤の一つにできないか、と真剣に考えている。

仮説的な考えだけど、未来の自分の働き方であったり、手がけたい仕事を先回りして予見することで、いつも自分は唐突に新しいことを、はじめようとしてきたのかもしれない。ちょうど10年ぶりに今回も。まるで惑星が天体を一巡りするように。

10年前のドキュメンタリーを始めた頃のように、まだまだ手探りというか、本づくりの入口にも立っていないけれど、10年後の2034年に自分が何をしていたいかと自問してみる。いくつか(一冊ではなく)の著作が生まれていることを、おぼろげだけど自分はイメージし、期待している。

と、日記ではないような備忘録になってしまったけど、大事なことなので、残しておこう。

仕事というか業務としては、来週1月21日に開催する横浜市民ギャラリーでのワークショップの事前準備的なネタだしがようやく終わる。
担当の高柳さんとのメールでの確認は、往復20回以上にも及び、一回限りのワークショップでここまで準備するのも可笑しいというか、アーティストが手がけるワークショップらしいのかもしれない。いよいよ本番が楽しみだ。


1/14
ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論」(星海社新書)を再読する。2021年7月に発売された本で、発売当初に買った記憶がある。

ちょうどKAAT神奈川芸術劇場での個展間近だったけど、当時の自分が何で買ったのかが思い出せない。届いてすぐに一気読みして、面白いとは思っていたけど、ずっと本棚にしまったままだった。そろそろ再読した方が良いのかなと考えていたけれど、改めて再読すると、初めて読んだ時よりもずっと自分に響く内容であった。実際に、これから自分が文章を書こうとしているからというのもあって、本に数多く書かれている飛躍的な考え方や、創作のプロセスに刺激を受けまくる。

執筆するという行為のプロセスを、ここまで書いて、公開していいのだろうかと思うくらい、心構えから、技法まで、詳細に腑分けしていることに再読しながら驚いた訳だけど、特に執筆者の一人、千葉雅也さんが創作にとって核心的なことをサラッと書いてあったりして。例えば、こんな一文。

クリエイティビティを発揮するって、自分のなかに自動生成プロセスが動き始めるみたいなところがある。人間の主体が自分の思いを表現するとかではなく、自分のなかに他者としての機械が動き始めて、なにかできてしまう、ということがクリエイティビティの根底にあるんじゃないかと思って、研究でもそういうことを考え始めたんですよ。

ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論

すごい。自分が無意識でやっていたことを、ここまで意識化して説明できることに唸った。例えば、SNSなどで自分の作品について解説や宣伝文を書く時、自分はまるで他人事のように自分のことを記述する。
家族からも、自分の作品について、よくそこまで自信を持って宣伝できるねと毎回指摘される(要は自画自賛)。そういう時は大抵、自分という主観を突き放して、思い切り客体化して文章を書いている。そうでもしないと素面で、自分の宣伝文なんて書けないというのが本音だけど。だから、「書く」という行為は、自我や、主体から離れることによって達成できるのかもしれない。とにかくすごく気づきの多い本である。

この本のように、創作をしている瞬間に人が無意識にやっていることに興味がある。そしてそれを言語化してくれる文章を自分は読んでみたい。
いわゆる創作論と呼ばれるものだろうか。ブラックボックスのように、解き明かせないと思われている創作の秘密が辿れることの喜びがそこにはある。


1/15
朝、「新しさよりも、自分らしさ」という文章の着想が、寝癖を直している最中に降りてくる。メモ代わりにThreadsに投稿してみる。
相対的な考えではなく、絶対的な考えへの移行という、最近の自分が考えていることと、過去の自分のエピソードを重ねた話が書けないだろうかと思いつく。ちなみに、朝の同じようなシチュエーションで、こうしたアイデアのような閃きがよく降ってくる。

ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論」を昨日に引きつづき、二日かけて最後まで再読した。良いタイミングで再読できたと思う。本は読むタイミングが全てだと思う。

同書の執筆者の一人である千葉雅也さんの考え方に以前から影響を受けていたけれど、その流れで同氏の著作「ツイッター哲学 別のしかたで」(文春文庫)をkindleで購入して、読み始める。

気がつけば2024年の1/24が終わっていて、思っている以上に早く感じる。


1/16
午前中、建築史家・建築評論家の五十嵐太郎さんがYCAMで開催中している「Afternote 山口市 映画館の歴史」の展覧会についてartscapeのレビューに書いてくれたことを知る。
https://artscape.jp/report/review/10189460_1735.html

五十嵐さんが会期の初めの週に来てくれたことは、X(旧Twitter)を通して知っていたけれど、実際に書いてくれるとは。やはりこうして文章に残してくれると嬉しい。レビューの内容自体も手応えを得られるものであった。

お昼頃に、今度はCasa BRUTUSからの取材記事の構成も届く。ほぼ同時に、同じ展覧会を取り上げてくれた文章が出揃ってきて不思議な気分になる。

Afternote 山口市 映画館の歴史」については、開幕してから2ヶ月が経つけれど、そろそろ作品にまつわる文章を自分でも書きたいなと思いはじめた頃だったので、こうした紹介記事に背中を押してもらったようで心強い。

夕食後、いづみさんとルーティンについて話す。「PERFECT DAYS」の平山のように、日々の生活、労働のなかで習慣化して積み重ねることの大事さ。
例えば、このnoteに書きはじめた日記もそう。時々、書くことが大変になるけれど、習慣化して、書く時間を確保することで、文章を書くことの筋力を確実に鍛えてくれると、半月つづけただけでも実感している。ルーティンの力を信じてみる。

作品制作のための取材をはじめ、アーティストとしての活動費に使わせていただきます。