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どちらにしても、後悔するよ

このところ、健康診断や予防接種で、体に針を刺すことが多い。
いい大人なのに、注射針が迫ってくると逃げ出したくなる。
私は痛みに強いほうだが、針は嫌だ。
特に、点滴が苦手だ。

11年前、長女を妊娠中、切迫早産で入院した。
入院中、つらかったのは点滴だった。子宮の収縮を抑える薬を常に点滴していた。

2日目あたりから、針が刺さっているところが痛がゆくなってきた。手首の内側の柔らかいところだった。
痛みはだんだんひどくなった。看護師さんが反対の手首に替えてくれたが、すぐに同じことになった。寝ても覚めても、皮膚の下がズキズキとうずく。気が狂いそうだった。
今思い出しても、手首がうずくような気がする。

でも、あの点滴のつらさは、今まであまり人に話したことがない。入院中に限らず、妊娠、出産に関して、他にも身体的・精神的にしんどいことはいろいろあったが、誰かに訴えることはしなかった。
なぜ、他人に話せなかったのだろう。

育児に関してもそうだった。
就職して一年目、会社の同期に、「(仕事と育児の両立が)大変だね」と声をかけられた。
私は、「でも、自分が選んだことだからね」と笑顔で答えた。
本当は大変だったし、毎日しんどかった。

学生時代からの友人にも、自分の抱えている問題は打ち明けられなかった。
私は大学3年の時に出産したので、周囲はまだ子供どころか結婚もしていなかった。
共感を得られないことも話せない理由の一つだったが、それより大きかったのは、自分の意地だと思う。

私が弱音を吐いたら、他人は「じゃあ、妊娠しなければよかったのに。自業自得でしょ」と思うだろう。

それに、私は自分の選択を肯定したかった。現状の幸せを疑ったら、出産を決めた過去も、家族と過ごす将来も、全部、否定してしまう気がした。

妊娠したことを母に初めて話した時、母は、「どちらにするとしても、いつか後悔はすると思うよ」と言った。
今思うと、娘に対して、なんと突き放した言い方だろう。私の母らしい、冷静な所見だ。
私はその言葉が真実であると直感しつつ、後悔より満足が勝るようにしたいと強く思った。

それからは必死だった。
母として、妻として、働き手として、一生懸命だった。いつも、より良くしたいと思っていた。より良い母、より良い妻、より良い社員。
それなのに、いつも、どこかに不満があった。育児にも、夫にも、仕事にも。うまくいかないところがあった。
それを他人には話せなかった。話すとしたら、前向きな表現に変換していた。「今はこうだけど、変えていきたい」とか、「考えようによっては、悪くない」とか。

2人目の子供が4才の頃、カウンセリングを受けた。
その中で、「私がしたいことは子育てじゃない」と気づいた。
産んでおきながら、そんなことを思うのは無責任だ。だからこそ、私は何年も何年もその気持ちを封印していた。逆に、良い母になろうと努力していた。良い母とはなにか、真剣に悩み、多くの本や講演を参考にし、(2人目出産以降はママ友もできたので)人に相談もした。

けれど、無責任な考えであっても、私の気持ちには変わりない。
それに、そう思うからといって、私が夫や子供たちを愛していないということではない。
夫と子供達が大好きであるのと同じくらい、私は私のために生きたい。

ちょうどその頃、私は転職に向けて具体的に動き出していた。
自分の好きな場所で、やりたいことをやって生きていく方法を探し始めていた。

「子育てじゃない」という気持ちを抱えて、それでも母としてやっていけるのか、不安だった。
でも、それは心配しなくてもよかった。自分のために生きながら、人生を他の人(たとえば家族や友人)と共有することはできると感じる。その方法は無限にある。必要なのは、心を開くことだけ。

今はそう思う。
11年前の、点滴の痛みに耐えていた私に言ってやりたいのは、自分の行動とその結果を常に肯定できなくてもいいんだよ、ということ。
いい時も悪い時もある。
今だって、私は日々行動している。自分で考えて、決めて、生きている。その結果を受け入れなければならないのは、20才の時の妊娠と同じだ。
うまくいかないこともあるだろう。その時は、「うまくいかないなあ」と言えばいい。

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