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さよなら国立劇場

映画好きなら割りとあることだと思うが、一時期、小津(安二郎)映画を片っ端から観ていた時期があった。流れるようにテンポの良い昨今の映画のカット割りとは真逆の、登場人物の台詞の度に流れが滞るような、台詞がポツリポツリと不定期に置かれていくようなタイム感。あれに病みつきになり、『大人の見る繪本 生まれてはみたけれど』から『秋刀魚の味』まで、観られるものはできるだけ観た。

その中で、別の意味で衝撃を受けたのが『長屋紳士録』の中の、長屋の皆で酒を飲んでいるシーン。皆が箸で茶碗を叩く拍子に合わせて、笠智衆が歌う「のぞきカラクリの歌」だ。

そもそもまず「のぞきカラクリ」とは、江戸から明治にかけて流行った、大道芸の一種らしい。レンズを除くと中の絵がクリクリと動き、これに合わせて演者がストーリーを、節を付けた口上で歌い上げるもの。昭和の中頃でもまだまだやっていたらしい道端や公園で水飴を買って見る紙芝居の、ちょっと上等なものといったイメージだろうか。一方で紙芝居が昭和の時代まで残っていたのに対し、こののぞきカラクリは映画の台頭により消えていってしまったらしい。或いは、直接レンズに代わる代わる眼をあてるので、眼の感染症が問題になって消えてしまった、という説も読んだことがある。

とにかく劇中で笠智衆は、以前こののぞきカラクリの出物をやっていたということになっていて、徳冨蘆花の『不如帰』の物語に節を付けて歌うんですけど、これがバチクソにかっこいいんですよ!車座になって、飲んでるご近所さん皆で茶碗酒しながら箸で茶碗を叩く、横で宿題してる子供も思わず真似をする、っていうシチュエーション自体も物凄くグッとくるんですけど、何よりかっこいいのが、笠智衆の歌の間の取り方。
我々はもう小学校、いや幼稚園や保育園で音楽を学ぶ時から既に、小節が4か3で区切られていて、その倍数に音や休符を置いていくというメロディーの認識に染まりきってしまっているが、この「のぞきカラクリの歌」は、走ったりつんのめったりしながらも、一方でそれは我々の「語り」の呼吸がそのまま生きてる歌い方。文明開化だのお雇い外国人だの言い出す前に、我々の国にはこの「語り」から派生した歌の、いや「唄」の豊潤な文化があったんじゃないのか。そんな気持ちにさせられました。

私も歌詞を覚えて飲み会で唄ったりはしてみたけど、今まで一人を除いてこのカッコよさに共感してくれる人はいなかった。

ここからちょっと気になって日本の「唄」の文化を探している時に、大阪出身の作家、織田作之助が小説で取り上げていて知ったのが、文楽だった。いわゆる人形浄瑠璃というやつですね。YouTubeで検索して出てきたのが、豊竹山城少掾が三兄弟の長兄松王丸を語る、『菅原伝授手習鑑』という演目の「車曳の段」だったけれど、これがほんとに凄かった。平家物語のような金槐和歌集のような独特の語調で力強く情景を語ってたかと思えば、それは流れるように登場人物同士のリズミカルな掛け合いになり、台詞と地の文が渾然一体となり、ひとつの力強いうねりとなって暴れ回る!

昔はYoutubeにあったけど消えちゃいました

文楽の太夫の語りに特徴的なのが、物語の中の登場人物も地の文も一続きに、最初から最後までひとつの「語り」或いは「唄」として唄い上げるところ。織田作之助はこのスタイルに多分に影響を受けていると思うし、織田作之助を読んで「こらいけるぞ」と思ったという野坂昭如も、その正統に位置する(と私は思っている)町田康もおなじ「語り」の伝統に依拠していると思う。そういえば町田康も初期の短文で、「語り」の歌手としての矜持を書き記してましたね。(思い返すと彼がそこで挙げていたのは文楽ではなく、浪曲師広沢虎造の「清水次郎長伝」だった。)

近代屈指の名太夫だったらしい

更に、太夫の鍛え抜かれたギンギンの語りと、太棹で奏でられるバキバキの三味線をぴったりと繋ぎ止めているのが、西洋の五線譜のような幾何学的な条理空間ではなく、もうただ「いき」としか言いようのない、極限までに有機的な繋がり。あれはほんとに、それぞれが楽譜を見て練習しておけば大体合う、なんてものじゃなくて、毎日毎日、顔を突き合わせて呼吸を重ねることでしか生まれないものだと思う。それは自立したもの同士の美しい交錯、シンフォニーを楽しむ西洋音楽とは全く違う、新たな力強い有機物がその瞬間にのみ現前するところに立ち会うこと。英語では音節の場所や数が言語認識に大きな役割を果たしているのに対して、日本語の発声ではそれぞれの文字は割りと等価で、その配列によってこそ認識されている、という対比にも何か近しいものがあるのではないかと思う。

太夫たちの神聖な玉座 クルッと回ります

これに虜になった自分はそこから文楽公演に足繁く通うようになるわけだが、当時の福岡では、年に一回だけ冬に博多座へ巡業公演に来てくれていて、それぞれ演目の違う朝・昼・夜公演をできるだけ全て観るようにしていたし、就職した職場にも文楽ファンの先輩がいたりして(これが私が飲み会で「のぞきカラクリの歌」を唄った時に唯一興味を持ってくれた人でした)、大阪へ出張に行った時には、仕事終わりに国立文楽劇場へ観に行ったりもした。これはこれで大変に思い出深い経験だったが、それはまた別のお話。
そうこうする内に仕事の関係で任期付きで東京に行くことになり、国立劇場で年に何度も文楽を観れるようになった。

東京に来てからは奥さんも一緒に行ってくれるようになって、『国性爺合戦』「千里が竹虎狩りの段」の可愛い虎にニヤニヤしたり、『義経千本桜』「河連法眼館の段」の狐がクリクリ出たり消えたりする外連味に拍手したり、そうなってくるともう文楽友の会にも入って、朝公演を観る時は半蔵門駅から劇場までの道中にある立喰い蕎麦を食べるのが恒例になったり、同じく半蔵門にある「巨牛荘」って焼き肉屋さんがおいしいよ、と上司に勧められて、奥さんと行ったりもしました。美味しかったけどえらく高かったなぁ。
そう、今でも思い出すと鳥肌が立つ演目があって、それは『加賀見山故郷錦絵』「長局の段」での、あの女主人尾上を自害させてしまった主人公お初のキレっぷり。あれは本当に凄かった。人形の桐竹勘十郎と、太夫の竹本織太夫、三味線の鶴澤藤蔵による、完璧で稠密な強度空間。触れれば後ろに吹き飛ばされるほどのバチバチの密度で、あれは本当に、表現の力が人を超え出て、人が人でなくなる瞬間だったと思う。織太夫はNHKの「にほんごであそぼ」に咲甫太夫として出ていたので以前から親しみがあったが、押しも押されぬ素晴らしい名太夫になったなぁ、と実感したのも国立劇場に来るようになってからだった。奥さんも織太夫のファンになって、公演前に普通に洋装でMA-1を羽織って歩く織太夫を見たのもこの国立劇場横の小路だった。


そんな国立劇場が、この10月で建て替えの為に一旦閉館するのだという。そしてこの初代国立劇場における最後の文楽公演の演目は、『菅原伝授手習鑑』。私が最初にYouTubeで見て度肝を抜かれたやつですね。しかも通し演目で、まさにあの「車曳の段」もやってくれるらしい!私は菅原道真のお膝元、福岡県は太宰府の出身で、昔から『菅原伝授手習鑑』には親近感を覚えておりまして、これはもう何か運命めいたものを感じずにはいられませんでした。

今回は日曜日の公演なのでいつもの立喰い蕎麦屋さんは開いておらず、近くのセブンでおにぎりを買って腹ごしらえ。ここもよく来たなぁ。店の脇の階段にカマドウマの子供がいて、福岡ではよく見ていたのに、上京してからは初めて見たような気がした。
初めて生で観る「車曳の段」は、YouTubeで観ていたかつて名人達の公演とはまた違った解釈で、あちらはエネルギッシュで荒々しかったのに対して、当代のそれは、もっと端正でスマートな感じ。言葉の節々にも微妙に異なるところがあって、こうやって古典演目も少しずつ形を変えていってるのかもしれない、と大きな時間の流れを感じた。今回「車曳」で梅王丸を語っていた小住太夫は私が最近好きな太夫なんですけど、なんと彼は福岡出身で、博多座で文楽公演を観て圧倒されたことがきっかけで弟子入りしてるんですよね。時期的にも、本当に同じ空間で同じ公演を観ていたのかもしれない。そんな彼がここでこうやって素晴らしい語りを聞かせてくれているのだと考えると、ふと目頭が熱くならずにはいられませんでした。いやすみません、この演目のこの段に関しては思い入れがありすぎて、何か客観的な物言いができない感じです。

そして「桜丸切腹の段」を経て、最後の「天拝山の段」。天拝山って、京都にもそんな名前の山があってそこでの話なのかなと思っていたら、ほんとに福岡の天拝山での話なんですね!めちゃめちゃ地元ですよ!地元のとある高校に入ると毎週天拝山に登らされるって話もあったし、同級生が天拝山の上の方にある銭湯の厨房で働いてたりもしました。
「天拝山の段」の筋書きは、太宰府に追われた菅原道真が牛に乗ってのんびりお散歩していたところ、梅王丸が道中で捕まえたという追手を引き連れて登場。追手から藤原時平の悪い目論見を聞いた菅原道真は、気も狂わんばかりに怒り出す、というもの。周りの部下から「そんなに怒らなくても、あいつが悪いってのは前から分かってたことでしょ」と諌められても、何故か道真は更にヒートアップ。最終的に口から火花を吹きながら、手折った飛梅の枝で追手を斬首!それでもなお怒りが収まらず、天拝山に駆け上り、雷が鳴り響く中雄叫びを上げて終了、という狂ったもの。マジで最高。キンキンに磨き上げられた技術の粋をもって、こうやって無茶苦茶なことをやってくれるってのが文楽のほんとに好きなところなんですよね。

こうやって国立劇場で観られる最後の文楽公演がこれで、本当に良かった。

私も東京での任期が終わろうとしていて、もう以前のように気軽に文楽は観られなくなると思う。それでも、今のこの国立劇場は無くなってしまったとしても、前述のような種々の思い出、そして最後に他のどの演目でもない『菅原伝授手習鑑』をここで観たことは、いつまでも大切な思い出として心に残るだろう。

山本常朝の『葉隠』に書いてあったと思うが、昔の武家社会では、花見に料理を重箱で持っていき、花見が終わった際には、その重箱をその場で踏み壊したという。それは、その花見の思い出を一回きりの特別なものにするためなのだという。やや大日本帝国的な危険を孕むものではあると思うが、この刹那的な一回性を尊ぶ気持ちは、私には分かるような気がする。私もやや身勝手なことを言うと、この初代国立劇場についても、実際の建物は無くなってしまったとしても、なお一層、私の思い出には強く残り続けるだろう。

今までありがとうございました。
そして、さようなら、初代国立劇場。

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