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毛細血管のような人生でも

なにか特別な人だけでなく、ずっと静かに暮らしてきたように見える、おおぜいの高齢者も、一人ひとり驚くような個人史を隠し持っていると私は思う。私が自分の家族の物語を聞いた時、大きな日本史の川の支流を自分も流れているんだなと感じたから。

私が生まれる前、焼け野原の無一物の中でどうやって両親は生きてきたのか、戦争の前はどこのどんな若者だったのか、その親はどんな人達だったのか、何をして暮らしていたのか、そんなふうに自分の川を遡る。

私は実家から遠く離れて長い間暮らしていたので、親が元気な時はあまり話をする機会はなかった。そうしてやっとゆっくり話を聞けるかな、という段になって、家族でそういう話をする場が、日常生活の繰り返しの中では、あまり持てないことに気づいた。私は、遠すぎても近すぎてもうまく話ができなかったし、なかなかお互いにきっかけがつかめなかった。

以前、六車由実著「介護民俗学」という本を読んだことがある。民俗学者の六車さんが(親の介護のためだったか)仕事をやめて介護の仕事についた。ある時、認知症状がある方に、いろいろなことを聞いているうちに、どんどんその方の表情が明るくなり、ハキハキと自分のことを話しだした。

そこでそれをまとめて家族の前で発表したら、子どもたち家族も知らないことばかりで、今までは無彩色だったおばあさんやおじいさんが、総天然色になったように、家族のあり方も変化してきた、ということだったように記憶する。その時に個性がくっきりと現れてきたのだろう。そしてなによりご本人が、自発的に生きてきた時代を思い出して、生き生きしてこられたそうだ。

私は、少しずついろいろな種類の本を、気の向くままに読んできた。そして世界地図の中に日本地図があるように、世界史の中に日本史があり、日本史の中に家族の歴史があるのを感じるようになった。私の親、その親とたどっていくと、自分も親も大きな流れの中で、どうにかやってきただけなのだと思った。

もう親の記憶の中にしか残っていない家のルーツは、都合のいいエピソードの寄せ集めかもしれないけれど、何もないよりはましだろう。特に90代の方々は、その時の時代もあって移動距離のスケールが大きい。良い思い出だけではない。中国大陸や朝鮮半島、私の亡父などは、なんの因果かグルジア(ジョージア)のトビリシまでソ連軍に連行されて、命からがら帰国したという。

父はその時、心の一番柔らかい部分を、いくらか毀損させられたのではないか。今で言うPTSDのようなものを奥深く隠していたのかもしれない。父の思い出話は、核心に近づくと急に飛んで、話がよくわからなくなった。辛かった思い出を誰にも言わずに、定年後はお寺の建て替えの寄進を炎天下、頼んで歩いた。

私はよい娘ではなかった。家の中は民主的ではなかった。しかし今頃になって、しきりと父を思い出す。誰かエラい人が決めたことに翻弄されながら、誰もがなんとか生きてきた。今も悪病のパンデミックの中で、医療崩壊のただ中で、オリンピックの直前で、子どもから老人までマスクで口を覆って、ひっそりと息をして生きている。




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