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患者さんから教えてもらったこと 人生の歩き方


 ある日、YouTubeで動画を見ていると、おすすめ動画にて、リハビリ病院でリハビリに励む1人の女性の動画を目にした。
その女性は、脳梗塞を発症して左半身麻痺となり、当初は、介助者に付き添ってもらいながら杖を使って歩くも、身体のバランスを崩し、数歩歩いただけで、ふらついて壁にぶつかっていた。
しかし、リハビリを続けていくうちに、退院時には杖を支えにすれば、自力で歩けるまでに回復した。この動画を見た時に私は、涙が溢れてとまらなくなってしまった。それと同時に、私は自身がかつて、病院で勤務していた時に出会った、1人の患者さんのことを思いだした。
今日は、私の中で今も記憶に残る、1人の患者さんについて、ここで話をしていきたいと思う。

   その患者さんとの出会いは、当時、私が転職した病院の回復期リハビリテーション病棟に、リハビリ目的のために転院し、入院していたことだった。
初めて対面した時は、私は転職したばかりの初日。オリエンテーションもまだ途中で、入院患者さんについての情報は、この時はまだ、充分に持ち合わせていなかった。
しばらく接していると、この患者さんは何か違う。何で、こんなことを言ったり、こんな行動をするのだろう?と、感じる場面が多くなっていった。
一見すると、振る舞いが怒りっぽかったり、わがままに見えるなど、言動が幼い子どものようだった。そこで、気になりカルテを見てみることにした。
するとそこには、以下の内容が記載されていた。

  大型バイクを運転中に、自損事故により受傷。
(※読み:じそんじこ。自損事故とは、運転者が単独で起こした事故のこと。つまり、被害者となる相手が存在しない。この患者さん(Tさんとする)の場合、バイクで走行中、カーブを曲がる際に、曲がりきれずに受傷に至った)
診断名には脳挫傷( 読み:のうざしょう 。※事故の際、外部からの衝撃によって頭部への打撲など、直接的に力が加わり、脳がダメージを受けて損傷すること)、高次脳機能障害(読み:こうじのうきのうしょうがい。※後ほど文章内にて説明)、骨盤骨折(※交通事故や高所からの転落など、大きな外力が加わった時に生じる。多発外傷を伴いやすく、出血が多量だと死に至ることもある。転院時には、すでに大学病院に入院中に、治療は終了していた。)、脾臓損傷(読み:ひぞうそんしょう。※脾臓の働き→血液中の古くなった赤血球を壊したり、新しい血液を溜める働きをしている。また、免疫機能にも関与している臓器)下肢の骨折(大学病院で手術は終えており、急性期治療は済んでいた)に対し、現在シーネ固定にて治療中。

   高次脳機能障害とは、脳が損傷することによって生じる後遺症のことをいう。
原因となるものには、外傷性脳損傷(交通事故や転落)、脳血管障害(脳梗塞、くも膜下出血)、心肺停止による低酸素脳症(心筋梗塞、重度の喘息、水難事故)、脳炎、脳腫瘍などが挙げられるが、このうち、障害発生の原因となる約8割は脳血管障害によるもので、約1割が頭部外傷、その他として残り約1割に、アルコール・薬物中毒、多発性硬化症がある。

  障害というと、多くの人は一般的には目に見える形、例えば、外見から障害の有無を判断することが多いだろう。しかし、この高次脳機能障害の場合は違う。
なぜなら、この障害は、思考や感情・行動に障害を来たし、それに伴う症状が出現するのが特徴的だからである。それゆえに、目には見えない障害である。

  高次脳機能障害の症状は、多岐にわたる。
主な症状は、以下のとおり。
・注意障害  :  注意力散漫となり、集中力が続かない
・記憶障害  :  新しいことを覚えたり、思い出せない※高次脳機能障害の症状でいう、ここでの記憶障害は、認知症とは異なる。
それは、認知症の症状が進行性であるのに対し、高次脳機能障害は、症状の改善はあっても、悪くなることはないといわれているため。
これは、高次脳機能障害が先天性や進行性の病気ではなく、それまでできていたことが、受傷をきっかけに、症状が表れるようになるからである。
・遂行機能障害〈読み方: すいこうきのうしょうがい〉
物事に優先順位をつけたり、段取り良く物事を進    めることができない
・社会的行動障害  :その場に適した感情のコントロールができない
・失語症  :「話す」「聞く」「読む」「書く」ができない
→相手の話が理解できないため、コミュニケーションがとりずらくなる
・失認症 :視覚や聴覚に異常はないものの、ものを見たり聞いたりしても、見えない、聞こえない状態。
これは、脳が情報処理できないために、認識することができないことによって生じる。
・失認症  :一連の動作の手順がわからない
→例えば、服の着方がわからない等

  Tさんの場合も、上記の特徴的な症状を複数有していた。
次に、Tさんの具体的な症状について、以下に記載していく。
・日中ぼんやりとして過ごしている時間が長い
・車椅子に座って起きている時(目が開いて目覚めている状態であっても)、一点をじーっと見つめていたり、あくびをしていることが多い。
⇒自発性の低下
・長時間車椅子に座っていられず、すぐに頭が下がり、それと同時に身体の姿勢も崩れてしまう
⇒易疲労性〈読みかた : いひろうせい>
                      (意味:疲れやすい、耐久性の低下)
・名前を呼んだ時に反応までに時間がかかり、何回も声をかけないと視線があわなかったり、返事が返ってこないことが日常茶飯事
・新しいことが覚えられない(ついさっきのことも忘れてしまう)ため、食事をしたことを忘れ、日に何度も「ごはん、まだ?」や、「ここは、どこ?」と尋ねてくる
⇒記憶障害
・食事の時間、Tさんに食事の配膳を催促されるも、配膳環境が整っていない為、(この場合、配膳車そのものが病棟に届いていない場合や、患者さんによっては、食事に伴い食前薬の投与をする必要がある等の理由から、患者さんには順番に食事を配膳している。そのことを伝えた上で)Tさんに待っていてもらうように伝えるも、自分の思い通りにならないと感情の制御ができず、怒りのあまり、食事を置くテーブルを両手でガタガタ激しく前後に動かす、力いっぱい何度もテーブルを思いっきり叩く、等の行動をとりはじめ、自分のところに食事が配膳されるまで「ごはん、ごはん」「早くしろー!」と大声を出して叫ぶ
⇒社会的行動障害
・食事やリハビリ中、途中で疲れてしまい、手が止まってしまう
⇒注意障害
以上が、当初目立っていた症状だった。

  しかし、私はこの先、Tさんの回復過程から、様々な気づきや学びを得ていくことになる。
入院生活が長くなるにつれて、Tさんの状況は少しづつ変化していった。
最初は、日常の生活場面に変化が見られたことが始まりだった。すると、次第に言葉使いや態度にも変化がみられるようになっていった。
やがてそれは、リハビリの取り組み方にも表れ、意欲的に取り組む姿として目に映るようになり、成果につながっていった。
それはまるで、Tさんが時間をかけて、ゆっくりと自身が置かれた状況を理解していき、自分を取り戻していくかのように。

   治療には、それぞれ各段階があり、急性期→回復期→慢性期の順番で経過を辿っていく。
下記は、それぞれの医療段階を説明したものになる。
※急性期: 容態が不安定で、急変のリスクが高いのが特徴。病気やケガを発症して間もない、緊急または重症な患者さんに対して、治療を最優先することを目的とし、病気の進行を止める、回復の目処をつけるために、手術などの集中的な医療が一定期間行われる。
回復期:急性期から脱し、身体機能の回復、社会復帰を目指す期間。急性期は脱したものの、まだ入院が必要とされ、治療が必要な患者さんに対して医療が行われる。
※回復期リハビリテーションは、回復能力の高いこの時期に行われる。
慢性期:病状が比較的安定している時期。
再発の予防や体力の維持をめざし、長期に渡り治療を続けていく必要がある。

   急性期治療では、安静によって身体の負担が軽減されて回復が図られる一方で、その弊害もでてくる。
それは、寝ている時間(期間)が長期化することで、身体の機能が衰えてしまうということだ。
安静による弊害の最も代表的な例は、筋力低下だ。これには無理もない。なぜなら、入院直後の患者さんは、病気や怪我の治療に専念するため、ベッド上での安静を余儀なくされるのだから。
予断を許さない急変のリスクと常に隣り合わせの患者さんの周りには、治療のための点滴や装具など、様々な機械が取りつけられており、生活の中心は常にベッド上になる。
また、これに加えて、損傷の程度によっては永久的に障害を負ってしまうことも問題としてでてくる。
それは、麻痺や拘縮だ。
麻痺や拘縮が生じると、以下のようなことが起こる。
麻痺〈まひ〉:  脳・神経系に何らかの障害が起きて、障害を受けた部分が、自分の意思で手や足が動かせなくなる状態。
麻痺が起きると指に力が入らず、脱力した状態となる。
こうなると、ものを掴んだり、状況にあわせて指に力を入れる際の力加減が出来なくなる。
(一例として、文字を書く時にボールペンが握れないため、字が書けない等がある)
拘縮〈こうしゅく〉: 関節を構成する組織の機能が何らかの原因で低下し、関節可動域(読み:かんせつかどういき)が制限された状態。
これは、手や足をスムーズに曲げたり伸ばしたりができない、しづらくなる状態となる。
(一例として、食事をする際に、食べ物を適切な距離で口元に運べない等)

  このように、病気や怪我をきっかけに、筋力低下や麻痺、拘縮が起こると、患者さんの多くは受傷をきっかけに、生活が一変してしまう。
入院前までは、それまで当たり前のように出来ていたことが、できないことが増えたり、出来たとしても時間がかかるようになってしまうのだ。
こうなると、日常生活を送るうえで困難や不便を感じる場面に度々遭遇し、自分の意思やタイミングで日常生活が送れなくなってしまう。
しかし、そのような状況のなかでも、その人の生活や、その後の人生は続いていく。
リハビリテーション病棟では、そういった病気や怪我で障害を負ってしまったり、身体の回復過程において、まだ十分に身体がうまく動かせない状態の人が、日常生活を送るうえで困難となっていること(現在の困り事や悩みが軽減・改善できるように、)に対して、様々な方法からアプローチをしていく。

  回復期リハビリテーション病棟はその名の通り、リハビリテーションに特化した病棟だ。
回復期リハビリテーション病棟では、1日最大3時間、入院できる最長期間が180日(入院期間は疾患により異なる)というなかで、患者さん個々の身体の回復状態や、日々変化する体調に合わせて、リハビリテーション(理学療法や作業療法、言語療法などを組み合わせて)が行なわれていく。
患者さんの多くは、積極的にリハビリを行うために入院してくるのだが、リハビリを行う目的は、主に2つ。
それは、残存機能(ざんぞんきのう :残された身体機能のことを指す)の維持と回復、社会復帰だ。
これには、入院直後から退院後の生活を見据えて、リハビリテーションが実施されていく。
また、リハビリテーションに加えて、環境調整(※自助具の使用)も行われる。これによって、生活を送るうえでの工夫を用いることで、患者さんの残存機能の維持と向上ができるように働きかけて、患者さん自身で日常生活が行えるように支援していく。
そのため、入院生活では起きてから寝るまで、ごく自然な形で、生活のあらゆる部分に、リハビリテーションがとけこんでいる。

※自助具(読み:じじょぐ。病気や障害、加齢など、様々な理由から身体機能が低下した人が、生活における様々な場面において、可能な限り自分自身で容易に行えるように補助し、日常生活をより快適に送るために、特別に工夫された道具のこと。
公共の場で目にする駅中の階段やトイレの手すりも、自助具のひとつ。

 
   Tさんは入院当初、生活全般を、看護師をはじめとする、病院のスタッフに委ねていた。
病棟での食事は、患者さん達は食堂でとることになっていた。
皆がそれぞれの方法で食堂に集まり、決まった場所で、顔なじみの人達と、食事を共にするのだ。
食堂への移動手段は様々で、車椅子の人もいれば、杖をついて歩いてくる人、意識の状態が悪く、ベッド上で過ごさなければならない人は、職員がベッドごと患者さんを食堂に移動させることもあった。
患者さん個々が、それぞれの方法で日に3回、食堂に集まって食事をするのには、理由がある。
それは、病室から食堂に移動することが離床の機会となり、歩行器や杖を使って歩く人にとっては、移動距離が歩行訓練になっているからだ。
しかし、歩行器や杖を使って歩くということは、患者さんにとっては歩行訓練になると同時に、転倒のリスクが高まる。
前向きに歩行練習に取り組む患者さんは、自分に合った歩行を身につけている最中である。まだ、歩行は不安定なことも多い。そんな中、歩行時に転倒してしまうと、患者さんによっては、転倒による恐怖心から、歩行に対して消極的になってしまうこともある。
また、転倒リスク以外にも、歩行の途中で疲れてしまって足の運びが止まってしまうことなどもあり、病室から食堂への移動は、患者さんにとって、労力を必要とし、様々なことが起こりうる場面のひとつでもある。
しかし、退院後、日常生活に戻った際には、生活の場面で、食事やトイレ、風呂など、移動する機会は思った以上に沢山あるのだ。
そのためにも、生活のなかで身体を動かす、歩行回数や距離をのばしていく、段階を踏んで移動手段を変化させていくということは、リハビリテーションで重要な意味をもつ。

   Tさんは食堂への移動に、リクライニング車椅子を使用していた。
ベッドから身体を起こす際には、Tさんは握力が低下していたことに加えて拘縮もあり、自力で起き上がることができなかった。
その為、当初はベッドからの起き上がりからリクライニング車椅子への一連の移乗動作は、スタッフの全介助にて行われていた。
食堂に移動した後のTさんはというと、度々、ぼんやりと過ごしていることが多く、食事が配膳されるまでの途中で、疲れて姿勢が崩れてしまったり、居眠りしてしまうことが多かった。
その為、自力で食事をすることは困難で、食事の際は看護師やリハビリスタッフが介助につくことが多かった。
しかし、リハビリを重ねていくうちに、Tさんは意識状態が改善されていくと共に、少しずつ自分でできることが増えていき、食事の場面でスタッフが介助する場面は段々と減っていった。
そうなると、Tさんは食堂にてリクライニング車椅子に長時間座っていても、姿勢が安定するようになり、配膳を待っている間も、大声を出したり感情に任せて興奮する姿が見られなくなった。
そして、食事の動作では、当初は食べ物を口に運ぶ動作が上手くできず、食べ物が食器から上手にすくえなかったり、食べこぼしも多かったが、それもTさんへの声かけや関わりを続けていくうちに、改善されていった。
こうして、Tさんは食動作が自力で行えるようになると、ベッドからリクライニング車椅子への乗り移りも、スタッフの一部介助(移乗動作の見守りと、移乗時におけるフラつきや転倒予防の為、危険時には、手助けすること)にて、自力で行えるようになった。
すると、Tさんの言動に変化が見られるようになった。

   ある朝、いつものようにTさんに挨拶をすると、私の目を見ながら「おはようございます」と言ってくれた。初めてのことだった。
その時、私はTさんが認識してくれたのだと分かり、コミュニケーションがとれたことが嬉しかった。
それからというもの、挨拶をする時は、お互い目を見て、アイコンタクトをとりながら挨拶がかわせるようになり、食事を配膳や下膳した際には、Tさんから「ありがとうございます」と、言葉が返ってくるようになった。

   ある日のこと、Tさんの病室の前を通ると、Tさんから「すみません。」と声をかけられた。
Tさん、どうかされましたか?と尋ねると、「車椅子に移りたいんです。」と言われた。
一瞬、え!?と思った。そこには、Tさんが自ら意思表示をし、こんなことを言うようになったのか。という驚きがあった。
Tさんは、少し前からリハビリスタッフと一緒に、病室のベッドサイドで移乗動作を練習をしており、そのことを私は知っていた。また、病室の前を通った際には、実際に、練習姿を何度か目にしたこともあった。
Tさんのベッド脇には、車椅子への移乗動作のために、 天井から床にかけて、ポールが設置されていた。
移乗動作については、リハビリスタッフから、スタッフ付き添いのもと、移乗動作時は見守りしてくださいとの伝達があった。私はそのことを思い出し、Tさんの移乗動作を手伝うことにした。
いざ、Tさんをベッドから立ち上がらせ、車椅子への移乗を手伝おうとしたその時、Tさんは立位が安定せず、立ったままの姿勢で、足元がフラついてしまった。
予期していなかった。しまった、まずい。
この時、私はすかさずTさんの腰元に手を当て、姿勢を立て直そうとしたが、上手くいかない。
あれ!?どうしよう。私の力じゃTさんを支えきれないかも。
それに、Tさんがまるで、大男のように感じる。
何で!? そうか。 私の身長が163cmに対し、T さんの身長は、見た感じで身長が175cm前後。 私とTさんには身長差がありすぎるんだ。
この時、次のことが脳裏をかすめた。
このままだと、私とTさん、2人とも転んでしまい、Tさんに、怪我をさせてしまうかも。どうしよう。
困った。これは、まずい。何とかしなくちゃ。
Tさんは30代半ばで、体格は標準だが、2人の間には、あまりにも身長差がありすぎた。
今になって、なんであの時、私は1人で移乗の介助をしようとしたのだろう。1人で介助できると思った自分がバカだった。過信していた。
この時、無理なことはわかっていたが、もしも、あの時に時間を巻き戻せるのなら、巻き戻したいと強く思った。
Tさんが転ばないようにと、私は必死だった。
お願い。私、もっと頑張るから、Tさんも頑張って。
祈るような気持ちで、心の中で強く念じた。
気持ちは焦るばかりだ。
恐怖とパニックで押しつぶされそうになりながら、一瞬で、これらのすべての言葉が、瞬時に脳内を駆けめぐった。
Tさんを見ると、ベッド柵に掴まりながら、力の入った腕は震えている。私もTさんの身体を支えるために、更に腕に力を入れて、Tさんの身体をしっかりと支え、介助する。
そうこうしている間、どうにかしてTさんの立位を立て戻すことができ、何とか車椅子へ移乗させることができた。
危機一髪だった。私は胸を撫で下ろした同時に、この時初めて、移乗動作の介助が、不安と恐怖を感じた瞬間になった。
きっとTさんも私と同様に、必死だったに違いない。そしてこの時、私は強く思った。
今度、Tさんの移乗介助をする時は、次からは他のスタッフにも声をかけ、協力してもらうことにしようと、自分に誓ったのだった。

 
   普段、あまり意識することはないが、私達の日常生活は、これまで生きてきた、自身が成長過程で身につけてきた方法によって、成り立っている。
食べることや歩くこと、トイレ動作など、日々の暮らしのなかで繰り返される日常生活動作を、子どもの頃から日に何度も、幾度となく行ってきた。その結果、今となっては何気なく、そのほとんどを無意識のうちにやってしまっている。
しかしこれらは、日々、自身が経験から得た(失敗からの学びも含めて)学びの結果であり、訓練の賜物であるといえよう。
もちろん、そこに至るまでには、幼少期に、子どもの成長・発達段階にあわせて、親を始めとする周囲の大人達の働きかけ(適切な声かけや具体的な手助け)があったということは、いうまでもない。
そのおかげで今となっては、ひとつのことを行うことに対して、頭を働かせ、意識を向けながら、一つ一つ動作を確認しながら注意深く行なったり、緊張が走るなどといった場面に遭遇するといったことはない。
今のTさんにとって、生活のなかの様々な場面は、まさに、毎日が訓練・学びの最中なのだ。
そのためには、私はTさんのできることとできないことを見極め、怪我や転倒をさせることがなく、安全な環境のもと、リハビリの成果が発揮できるように関わって行く必要があると、再認識した。

   1ヶ月程経ったある日のこと、Tさんの病室の前を通りがかると、Tさんがリハビリスタッフに見守られながら、ベッドから車椅子への移乗を行っている姿を目にした。
Tさん、大丈夫かな。と見ていると、Tさんは介助なしで自分でポールに掴まり、ベッドから車椅子へ移乗した。驚くことに、以前はフラついた足元が安定し、移乗もスムーズだった。
私は思わず、「Tさん、すごいですね。今、Tさんが車椅子に座るところを見ていました。毎日、リハビリ頑張っていましたものね。リハビリの成果がでていましたね。」と、声をかけた。
Tさんは、自身の体の扱い方を習得していた。
それは、これまでTさんが毎日リハビリを頑張り、取り組み続けてきた努力の結果が、証明された瞬間だった。

  Tさんはその後も、日々病棟でリハビリを行ないながら入院生活を過ごしていたが、やがてTさんに、退院の日がやってきた。
退院先は自宅だった。退院時、最後に見たTさんの姿は、車椅子に座った姿だった。右足は拘縮しており、足底がフットレストにつかず、足がのびている状態だった。
私はこの時、Tさんが今後歩けるようになるのは、難しいのだろうな。と、思いながらTさんを見送っていた。

  私はTさんが退院してからも、Tさんのその後が、ずっと気になっていた。
Tさん、どうしているかな。という思いが、仕事中、ふと頭をよぎることが度々あった。

  Tさんが退院してから1年程たったある日、病棟で仕事をしていると、1人のスタッフから、「あれ?Tさん?お久しぶりですね。」という声が聞こえてきた。
声のする方へ視線を向けると、そこには、杖をついて立っているTさんがおり、すぐ近くには奥さん、2人のお子さん、奥さんの親族の方が一緒だった。
Tさんは杖をつきながら、私達スタッフがいるところに、歩いて近づいてきてくれた。皆がTさんとの再会を喜んだ。
後から親族の方に聞いたところ、Tさん達は、親族の方の運転で、片道3時間かけて病院に来てくれたそうだ。
きっと、Tさん達はサプライズで、私達に会いに来てくれたのだろう。
私は、この時のTさんを見て、Tさんの回復力に驚いたと同時に、ほっとしたような気持ちが込み上げてきた。
それは、Tさんをずっと見てきて、Tさんや家族の今後は、どうなってしまうのだろうと、いつも気がかりだったからだ。


  Tさんや家族にとって、事故は人生における危機的状況となった。
Tさんは、事故にあってから自身の置かれた状況を理解した時に、一体何を思ったのだろうか。
悲しみや怒り、不安など、様々な感情が押し寄せてきたことだろう。
また、何度も事故に遭う前の、あの時に時間を巻き戻したい、この出来事を、なかったことにしたい、現実から目を背けたい。という気持ちが強く生まれたに違いない。
しかし、そんな状況下にあっても、時は止まってくれない。こちらの状況に、あわせてはくれないのだ。無情にも、時は過ぎ去っていく。
皮肉にも、それは時間というものが、誰もが平等に与えられているものだからだ。

  人生には、様々なことが起きる。それは、良い事も悪いことも両方だ。
平穏な日々を過ごし、ストレスがなく生きることが出来たのならば、どんなに良いだろう。
きっと、心乱されることなく、嫌なこととは無縁だろう。
しかし、生きていると、自分の意思とは関係なしに、試練ともいうべき障害や困難が突如、自身に降りかかってくることがある。
それは、自分自身の問題だったり、人間関係、金銭や健康問題など、例を挙げればきりがないが、悩みの種というのは、姿かたちを変えて、私達に現われるのだ。
本来、皆、自分にとって都合の悪いことは、起きてほしくない。
辛い、悲しいことが起きると、何で私がこんな目に遭うのか。なぜ?と、その意味を考えて自問自答する。
次第に、自分の心では受け止めきれない思いは、時に、現実逃避の思考に陥り、生きていることが嫌になり、消えてしまいたいという感情が生まれる。
自分の身に起こった、この出来事に意味はあるのか。
そして、その意味は何なのか。
その意味がわかり、理解出来る時がくるのか。それがいつなのかはわからない。
わかる時がくるかもしれないし、ずっと、わからないままかもしれない。
しかし、私達が過ごす人生という時間には、巻き戻しや早送りなどはなく、時に悩み傷つきながらも、立ち止まったり、ゆっくりでも良いから、今起こっていることに対して、自分のペースで歩を進めていくしか方法はない。

 
  私達は日々、様々な出来事を通して、自分の感情や心と向き合っている。
毎日、楽しいことや嬉しいことばかりだったら良いが、そうもいかず、時には悲しいことや辛いことも経験する。いや、むしろ、どちらかというと、楽しいことや嬉しいことといったことよりも、辛い、苦しいといった感情を抱くことの方が、多いのではないだろうか。
毎日が楽しくてハッピーという状態にある人は、ごく一部で少なく、多くの人は皆、何かしらかの悩みや葛藤を抱えて、日々生きているのではないかと思う。
世の中には、様々な人がいる。
そして、人には人の、それぞれの生き方、人生がある。
望まない境遇や環境に身を置いて、他人を羨ましく思うこともある。
傍目に見たら、あの人は恵まれていて、悩みがなさそう。と、思う人がいるかもしれない。
世の中の一部には、なんの悩みもなく生きている人がいるかもしれないが、実際に、悩みと無縁かどうかは、わからない。
人がどんな思いを抱え、日々生きているのかは、直接本人から聞いたり、話してみなければ、わからないものだ。
人の心の内というのは、目には見えない。
だからこそ、隣の芝は青く見えるのかもしれない。
しかし、結局のところ、どれだけ他人を羨ましがったり、憧れても、自分はその人自身にはなれないのだ。
自分は自分の人生を生きるしかない。

  Tさんにはお子さんが2人おり、共にまだ小さかった。
入院中、下のお子さんは、奥さんがベビーカーに乗せて面会に来ていた。
Tさんにとってリハビリは、長いこと、辛く苦しいものだったことだろう。
リハビリの効果は一朝一夕では現われず、成果を上げるためには、痛みに耐えながら、継続して取り組む必要がある。
毎日のリハビリのなかでは、理想と現実のギャップに何度も心が折れ、挫けそうになったことだろう。
また、痛みによって身体を動かすことが苦痛だったり、その日の体調があまり良くなく、リハビリに集中できなかったり、何となくやる気が起こらなかったりと、リハビリを続けていくなかでは、様々な出来事があったに違いない。
私は入院中、Tさんの泣き顔や泣きごとを見たり聞いたりしたことはなかったが、人知れず泣き、涙で頬を濡らしたことも、度々あったのではないか。
しかし、気力・体力を振り絞り、自分を鼓舞しながら、一日一日、毎日コツコツと訓練を積み重ね、そうした日々があったからこそ、今、こうして自分の足で立ち、歩いているTさんがいる。

  私はずっと、九死に一生を得た大事故から回復してきた、Tさんの人間力ともいえる底力に驚かされてきた。そして、その強さを支えているものは何だろうと、ずっと考えてきた。
私が思うに、Tさんは自身が置かれている状況を理解した時、Tさんの中で、2つの選択肢が生まれたのではないかと思う。
ひとつは、残りの余生を、ただ時間が過ぎるのを待ち、流されるまま生きていく生き方。
もうひとつは、障害や困難に負けず、事故を理由に、自分の人生を諦めないという生き方。
Tさんは、後者を選んだ。その時から、Tさんの人生は個人としての人生だけではなく、夫として、父親として生きていく決意と覚悟が生まれたのではないかと思う。

   私はTさんを通して、他人の生き方に触れたことで、自分の生き方を見つめ直す機会を得た。
人は、生まれてから現在に至るまでのどこかで、自分が気づいた時には、いつの間にかこの世に生を享けていたという感覚の人がほとんどだろう。
毎日が単調で、同じことの繰り返し。そんな日々に嫌気がさしてくる。と思うこともあった。
しかし、人はいつ、自分の身に何が起こるのか、わからない。
昨日と同じように、当たり前の日常が今日もくるとは限らない。その確証は、どこにもないのだ。
私の人生には、どんなことが起こるのか、今はまだ分からない。
人生は生きること、最期の瞬間まで生き抜いてみて、そこでやっと、意味を知るのかもしれない。
その時に、私はただ、何となく生きてきたということはしたくない。後悔のないように生きていきたいと思う。

   意思を持たない生き方は、果たして生きているといえるのか。
それは、肉体は生きていても、心は死んだも同然だ。
辛い感情なんか、もちたくない。自分が傷つかないためにも、感情なんか、なくなれば良いのに。かつては、そう思ったりもしていた。
悩み、考え続ける以上、自分の意識はそのことに囚われ続け、心を悩ませるからだ。
自分でも自覚しているが、私は悩みやすい性格だ。悩んだり落ち込んだりすると、なかなか抜け出せない。
その為か、生きることが辛い。生きにくいという感情をもちながら、これまで生きてきたように思う。
私自身、長年自分の生き方に悩み苦しみ、ずっと考えてきた。
そして、その度に悩んだり、落ち込んだりする感情を引きずる自分が嫌だった。どうして自分は、いつもこうなのか。と思ってきた。
しかし、そうしたなかで、最近は自身の心境に変化がでてきた。
それは、楽しいや嬉しいばかりでは、心は動かない。喜怒哀楽があるからこそ、生きている実感が得られるのではないか。そう思えるようになってきた。
私は今、自分の弱さを認めながらも、自分の人生と向き合い、これから生きていきたいと考えている。
それは、自分の人生を生きる覚悟をもつということだ。

   今、こうして記事を書いていると、当時のことが思い出され、様々な感情がこみあげてきた。
まるで昨日のことのように、あの時の記憶と感情が思い出される。
あれから月日が経って私が歳をとったように、Tさんも歳をとったことだろう。
あの時小さかったお子さん2人も、今は大きくなっている。Tさんは、どんなお父さんになっているのだろうか。そんなことを考えたりしていた。


   私は、Tさんの人生の一部に関わることが出来て良かったと思っている。
Tさんとの出会いは、私の生きる姿勢に、強く影響を与えた。
人との出会いや関わりが、今の自分を形成しているのだと、強く感じた出来事だった。
この場を借りて、Tさんに感謝の気持ちを伝えたい。
そして、いつか奇跡がおきて、Tさんが私の記事を読んでくれたなら嬉しい。そう願って、この記事を終わりにする。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。













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