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『ぼくはくま』だから寂しい【歌詞考察・宇多田ヒカル】

 『ぼくはくま』はNHK番組『みんなのうた』で放送されたことで有名な宇多田ヒカルによるとても有名な童謡です。
 とても童謡らしい楽し気なメロディでほんわかするこの曲は、童謡であるがゆえに「子供向けなのだから歌詞には特に意味は無い」とされがちですが、決してそんなことはありません。

 宇多田ヒカルは童謡でも全く手を抜いていない。というか『童謡』であることにすら意味がある。
『ぼくはくま』の歌詞の意味はめちゃめちゃ怖くて、深い・・・。
 この歌詞には「親子関係の闇」が込められているのです。

※ここからは分かりやすくするため「だ・である調」の文になっています。
 あくまで一つの解釈です。
 断定系の文章はウザイかもしれないですが、すみません。。。


おはよう、まくらさん

 この歌詞を理解するうえで入口となるのは後半のこの部分だ。

夜は「おやすみ、まくらさん」
朝は「おはよう、まくらさん」
ぼくはくま くま くま くま

①宇多田ヒカル『ぼくはくま』作詞 宇多田ヒカル

 ここで一番の謎は「なぜ語り手はわざわざ『枕』におやすみ、おはよう、と言うのか」についてだ。
 結論から言ってしまうと、

朝も夜も、語り手(子)の住む家には
挨拶を交わせる人(親)がいない

 のである。

 「ぼくはくま」と名乗る語り手をなぜ「子供」であると断定したか。
 読者であるあなたも子供の頃、ぬいぐるみなどに喋りかけそのぬいぐるみのキャラクターに扮する遊びをしたことがあるだろう。
 まさに『ぼくはくま』はその様子を歌っているのだ。
 ぬいぐるみのくまに扮する遊びをしている子供が「ぼくはくま くま」と喋っている様子を歌詞にしているのである。

 それと同様に語り手は枕に「まくらさん、おはよう。おやすみ」と無生物に喋りかけることにより自分を構ってくれる存在を生み出しているのだ。
 親は仕事で家にいないのか、もしくは虐待的な状況も考えられるだろう。

 「おやすみ、まくらさん」「おはよう、まくらさん」と枕に語り掛けているのは子供であり、「ぼくはくま」と名乗っているのも子供なのである。
 そしてその子供は寂しがっているのである。

くまはだれ?

 前述した通り、語り手の「くま」=「ぬいぐるみに扮している子供」だと考えられる。
 しかし別の解釈もできる。
 擬人化された「くまのぬいぐるみ」が自分を可愛がってくれている子供の寂しい状況を見ながら客観的に語っている歌詞だと考えると子供を見守るその「くまのぬいぐるみ」の視線には、

「くまのぬいぐるみ」=親

 という図式が浮かび上がってくる。
 さきほどとは打って変わって「くまのぬいぐるみ」は「親」の暗喩であると考えられるのだ。

 次の引用文をこの「親」視点から読んでみよう。

ライバルは海老フライだよ
ゼンセはきっとチョコレート
ぼくはくま くま くま くま

 この部分は子供が親である自分よりも海老フライやチョコレートのほうが好きそうな素振を見て、ライバルだと認識しているのだと解釈することができる。

 『ぼくはくま』の歌詞の語り手は字面としてはあくまで「くまのぬいぐるみ」だけなのだが、「くまのぬいぐるみ」を通して比喩されている存在が複数いるという多層的な表現をしたとんでもない歌詞なのだ。

なぜ童謡なのか

 次に考えたいのは、なぜ宇多田ヒカルは子供と親の両方の比喩を「くまのぬいぐるみ」に託したのかという点についてだ。

 皆さんも経験があると思うが、子供が親にぬいぐるみを持たせて喋らせるという遊びをすることがある。もちろんその際には親がくまのぬいぐるみに扮して喋ることになる。

 性格も、年齢も、語彙数も違い、話が合うはずもない子供と大人が「ぬいぐるみ」を介することによって、対等に話すことができるようになるのだ。

「ぬいぐるみ」は親と子を繋ぐ魔法の道具なのである。

 宇多田ヒカルは一方的に親(くまのぬいぐるみ)を責めるような歌詞を書きたかったわけではない。
 『ぼくはくま』を通して、繋がりたかったのだ。
 『ぼくはくま』を通して、親子を繋げたかったのだ。

 そのことを童謡(テレビの前で親と子が一緒に聴き、そして歌う音楽)を通して伝えたかったのだ。

(これは余談だが、宇多田ヒカルは両親、特に母親とのことで悩みが多かったようで、『花束を君に』〈リンクは曲のWikipedia〉をはじめとして、母親との関係や思いを歌詞に落とし込むことがあったようだ。
 そのことを踏まえると、この歌詞は自分自身も「ライバルは海老フライだよ」と思わせてしまうくらいに親(くまのぬいぐるみ)とちゃんと向き合わなかった罪があるという「宇多田ヒカルの罪の告白」だと解釈できる。)

ぼくはくま

 ぬいぐるみは自分で歩くことができない。
 喋ることもできない。自分から愛を伝えることができない。
 ぬいぐるみはそれがどうしてもできない。
 本当は愛しているのに、空回りして、伝えることができない。
 それは語彙数がまだ少ない未熟さによるものだろうか。逆に語彙数の多さによるものだろうか。それとも愛ゆえにだろうか。

 ぬいぐるみの閉じられた口を無理に開いたって綿が出てくるだけだ。自分から口を開かせなければ綿以外のものは出てこない。
 愛されるのを待つことしかできない「くまのぬいぐるみ」の苦しみを一体誰が代弁してくれるのだろうか。
 ぬいぐるみの無言の叫びは続く。

ぼくはくま 九九 くま
ママ くま くま

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