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あの日、目を覚ました私に伝えたいこと

私は、引きこもりだった状態のことを「目を覚ます前」と呼んでいる。その状態を乗り越え目を覚ました今思うのは、「目を覚ましていると怖いことばっかりだな」ということだ。

おかしな話で、目を覚ます前は客観的に見れば精神的にも現実的にも、あらゆる意味で「詰んでいる」状態なのに、ある意味では無敵で、何も考えず、何も恐れずにいられた。

たとえば、お金の話。

ひきこもっていた頃は、収入などというものはなかった。引きこもりながら何らかの方法で収入を得ている方もいると思うが、私は精神的にも非常によく眠っていたので、そのような現実的な考えが頭に浮かぶことはなく、完全な無職だったが、そのことを恐ろしいと思うことはなかった。

しかし、目を覚ました今は、収入が途絶えてしまうことをひどく恐れるようになった。

恐ろしいのは、お金のような生活に関わる現実的なものだけではない。他にも挙げればキリはないが、自覚している中で最も厄介なのは、以前よりも誰かの顔色を伺うようになったことではないだろうか。

誰かに温かい言葉をかけられて、有頂天になり。
人から返事が返ってこなければ、嫌われたんじゃないかと不安になり。
こんなことを質問したら面倒がられるんじゃないかと、やけに心配になったり。

こんなに怖いことがたくさん起きるのならば、いっそ目を覚さないままでいれば良かった。そうすれば、こんなに傷付くことなく、静かに腐っていけたんじゃないか、なんて、ゾッとするような考えが頭に浮かぶこともある。

そうなったら、私はnoteを書いていなかっただろうし、通信制大学で勉強もしていなかっただろう。過去のトラウマに無意識に苛まれ、無自覚に怯え、自分はこれでいいとぼんやり思ったまま、誰にも知られずひっそりと腐って死んでいただろう。

それはそれで恐ろしく、そしてとても嫌な話である。目が覚めてしまった私は、もう目が覚める前の、死ぬのを待つだけの怠惰な自分に戻れないし、戻りたくないと心から叫ぶ。

生きるって怖い。お金がないと何も買えないし、お腹も空くし、大切な学費も払えなくなってしまう。日々向き合わなければならないことが沢山あって、もっと早くに目を覚ましていたら良かったのにと後悔ばかり浮かぶ。

みんなどうやってこんな恐ろしいものと向き合っているのだろう。それとも、みんなにとってはこれは普通のことで、恐ろしいものでもなんでもないのだろうか。そのような超人じみた人のことを、みんなは「普通」と称しているのだろうか。

そんなことを考えては、「お前が頑張らないから、今こんなにやらなきゃいけないんだぞ」と、過去の自分に詰め寄ってしまいそうになる。

だけど、いつかのあの日に、目を覚ましたのもまた「過去の私」だ。
あの日の私が目を覚ましてくれなければ、今の私もいない。過去は全て現在と地続きだ。過去の否定は、現在の否定につながる。

だから、たまには責める手を止めて、頑張っている自分を褒めてみたりするべきなのかな、と思い直しては、過去の自分めがけて振り上げていた拳をそっと下ろしてばかりいる。

忙しさから離れていたnoteを久しぶりに開いたら、書きかけの記事があった。タイトルは、「いじめっ子に言い返すのに10年かかった」。

言い返すと言っても、現実ではなく夢の中でのことだ。昨年11月、どうやら私は夢の中でいじめっ子に初めて言い返すことができたらしい。

残念ながら、夢の詳細は既に忘れてしまった。けれど、夢は深層意識の表れというから、私はようやく、彼らに言い返せるぐらいに過去の呪いから抜け出せたということなのかもしれない。

目を覚ました甲斐があったよね、と、夢の中ですら何も言えず、俯きがちに地面を見ていた自分に今は伝えたい。
生きるのは大変で、目を覚ましたら怖いことばかりが待っているけれど。それでも頑張ってみるよ。

だから、また落ち込んだ時には、そっと暗がりから背中を押してやってほしいと、あの日の自分に思う。

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