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【つぶやき】給食大好き人間の過去と現在



みなさんは小学生の時、なんの科目が好きだっただろうか。

私の好きな科目ベスト3は音楽、体育、算数だった。


ただ、本音をいうと、給食の時間が1番好きだった。


食べるのが遅い子だったので、おかわり争奪戦にはなかなか参加できなかったし、掃除の時間まで1人で食べていることもあった。

でも、温かくて美味しいご飯を毎日食べられて幸せだった。
(私の学校は自校式で学内に給食室があったので、できたての給食が食べられた)


毎年3月の終わりになると6年生のお祝いのためのメニューがあった。そこにはいつもお赤飯が含まれていた。

私も小学校6年生となり、自分の卒業メニューにワクワクしている中、突然日常は変わった。




2011年3月11日14時46分

当時、神奈川の小学校に通っていた私は、教室にいた。

うちのクラスは特に連絡事項もなく、帰りの会が早く終わっていた。
でもまだ他のクラスは終わっていなくて、時間潰しに担任の先生も交えてみんなで雑談をしていた。

途中で電気がカタカタと揺れる音がして、地震だなぁと思った。でも、最初の揺れの時は、大した強さではなかった。



先生も、
「机の下隠れた方がいいんじゃない?笑」という軽い感じで、みんなそんなに深刻に捉えてなかったと思う。

6年生のクラスだったのもあるかもしれない。


でも、そんなことを言っている間に、急に強い揺れがきた。


全員が一斉に机の下に隠れた。




強い揺れはまあまあな時間続き、気がつくと教室の電気は消えていた。

「机の下に隠れろー!」


学年主任の先生の声が廊下に響き渡っていた。



どこが震源地なんだろう。
私はふと思った。


強い揺れが収まってしばらくすると、教室に待機するように言われた。

そして、ランドセルを机の上に置いたまま、グラウンドへ避難した。


日頃から避難訓練を行っている小学校だったので、避難にはそんなに時間がかからなかった。


グラウンドに避難すると、何人かの泣き声が聞こえていた。
1年生のクラスの集団だ。


私のクラスは6年生ということで特に混乱はなかったが、低学年のクラスの先生たちは本当に大変そうだったのを今でも覚えている。

6年の担任の先生たちも何人かは1年生のクラスの方へ行き、子供たちを抱っこしたりおんぶしたりとしていた。

何時間グラウンドにいたかは忘れたが、
夕方になって母が迎えに来たのは覚えている。

当時3年生だった妹と一緒に、3人で帰宅した。


帰宅すると、建物は無事だった。

ただ、洋服ダンスは倒れていて、電気・ガス・水道の全てが止まっていた。

小学校1年生の時にサンタさんからもらった、子供向けの天体望遠鏡は、タンスの下敷きになって壊れていた。
それを見て、初めて涙が出てきたのを今でも覚えている。
(小学校1年の時の将来の夢は、宇宙飛行士だった)

備蓄してあった水を使って、手を洗った。


震災にあう6年前、私は大阪に住んでいた。

母は阪神・淡路大震災を知っていたから、我が家の備蓄は完璧だった。
食べ物にも飲み物にも困らなかった。
トイレは、備蓄用してあった水をタンクから入れて使用した。

震災当日、お風呂には入れなかったが、水で軽く体を洗い流して済ませた。
夕ご飯は、家にあったハムとチーズと食パンを使って、母がサンドイッチを作ってくれた。

倒れてくるものが何もないリビングで、家族3人で布団に入って寝た。
余震は時々あったが、1人じゃなかったから心強かった。

夜中になって、キッチンの明かりがつき、母が「電気がついたー!」と言っていたのはかすかに覚えている。
(私と妹は、半分寝落ちしていたが...笑)


翌日は土曜日だったので、家で過ごした。
とりあえず、電気は復旧していた。

ガスも2,3日のうちには復旧し、水道も1週間以内には復旧していた気がする。

母が、幼い娘2人を連れて水の配給に行くのは無理だからと大量の水を備蓄していたので、水には全く困らなかった。


関西にいた親戚や母の友人たちが大量の物資を送ってくれたので、うちはかなり恵まれていたと思う。
(関西に大勢知り合いがいたのが、不幸中の幸い)

震災から数日たつと、家は関西から送られてきた食料であふれていた。
(関西のみなさん、本当にありがとうございました)


震災から3日がたち、月曜日になって登校した。
学校の建物自体の損傷はなかったので、授業は普通通りに行われた。

ただ、大きく変わったことがあった。

給食の品数が減ったのである。

電気が復旧したとはいえども、物流にはまだ混乱が起きていた。
きっと予定していたすべての食材は届かなかったのであろう。

そして何よりも印象的だったことは、給食が終了して午前授業になる日程が、前倒しになったことである。

1年生の時から楽しみにしてきた、自分の卒業祝い献立。お赤飯。

給食終了の前倒しに伴い、食べられなかった。


小学校の卒業式は、余震がある中でもなんとか執り行われた。
卒業生のイスには、自分たちの防災頭巾を置いてから入場した。

式の間には何度か余震がきたが、同級生が1人も欠けることなく、卒業することができた。

卒業証書を受け取り、4月からは中学生となった。



4月。
私が入学した中学校は、海の近くにあった。
東日本大震災と同じ規模の津波が来たら、校舎の2階、下手したら3階まで浸水すると言われていた。

震災直後だったこともあり、地震の避難訓練は、いつも津波を想定していた。
体育館が2階にあったので、グラウンドよりもそこに避難することが多かった気がする。

海沿いで潮風を浴びながら過ごした中高生の6年間。

海の怖さと波音の気持ちよさを学んだ時間だった。


高校卒業後はスポーツ栄養士を目指し、管理栄養士の養成課程がある大学へ進学した。

震災から10年が経ち、私は卒業研究で災害食を研究した。(もともとは別のテーマを希望していたが、勝ち取れなかった。笑)

偶然学ぶことになった災害食。
色々調べているうちに、10年前のことを思い出した。
母が私たちの食事に何不自由しないようにしてくれたように、私も周りにいる人を守れる大人にならなきゃなと思った。

また、研究中に、JDA-DAT(日本栄養士会災害支援チーム)というものを知った。
東日本大震災をきっかけに作られたものらしい。 


大学卒業して3年後、私はJDA-DATのスタッフ研修を受けた。
2024年4月からは、JDA-DATのスタッフとして登録される。

普段は学生寮で勤務しているが、いざという時には地域の人たちの命を守れるよう、日頃から備えておこうと思う。



大人たちに守ってもらっていた小学生の時から、気がつけば13年が経っていた。

震災にあった小学校6年生の時の将来の夢は、国境なき医師団に入ることだった。
(無駄に志は高かった)

そんな私の現在はというと、のんびり管理栄養士の仕事をやっているので、人は10年以上も経てば変わるんだなとつくづく思う。


ただ、震災で学んだ防災の大切さ。
これは忘れちゃいけないと思う。


自分の道を突き進みつつも、
その傍らで、防災に貢献できる人間で在り続けたい。

ここまで育ててくれた大人たちへの感謝を込めて。











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