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差別問題は「人をカテゴライズして好き嫌いや優劣を語ることが問題」と腹落ちした

今日のnoteを書くに中てた前置きとして。

僕はLGBTQ+を蔑視していない。
レイシズムにも賛同していない。
容姿の違いや特徴をいじったりもしない。
もっと言えばそんな括りはどうでもいいと思っている。
人に目を向ける時、そういった部分で注目する気がそもそもない。

だからnoteの途中の言葉尻を掴まず、
できれば最後まで読んでいただけるとありがたい。

もし気分を害されるようなことがあってしまったら、
決してそういう意図ではないので、お許しいただきたい。

考えたことを、考えた順に、ストレートに書かせていただく。

・・・・・

先に僕の結論を書いておくと、
「不快と思っても別に良い」発言は、やっぱり間違っている。


#確かに

今朝開いたSmartNewsで、1つの見出しが気になった。

LGBT差別的発現の足立区議、謝罪拒否「不快と思っても別に良い」

確かに。


そう、これを読んで最初に「確かに」と思ってしまった。
別にLGBTが嫌いだって構わない、と。

この件の詳細にはさほど興味がないので把握していないが、
純粋にタイトルだけを見てそう思った。

結構、目からウロコだった。

今にも誤解を生みそうなので、思考過程をもう少し詳しく書く。


#愛すべき善人

LGBTQ+や、レイシズムの話題になる時、
なんだかその人たちはとても善人であるかのように背景が語られ、
決して「嫌い」になってはいけないような風潮が作られる。

これは日テレの24時間テレビにも同じような空気を感じていて、
「障がい者の頑張りは感動する」と暗示が掛けられているような気になる。

全体的に“感動ポルノ”と言われるようなものに近い。

少なくとも僕はそう感じてきた。
彼ら/彼女らのことは愛さなくてはならない対象のような感覚。

頭や心のどこかに「なぜ?」という違和感はあるのだけれど、
それを公言したら“悪人”になってしまうので、そこには蓋をする。

ところが真っ向から「不快と思っても別に良い」と言われた。

この言葉に賛同したのではなく、
この発想に(一時)納得してしまった。

そう。メディアは「愛してくれ」なんて求めていないはずなのに、
「この人が何の悪いことをしたというのか」を伝えたいあまり、
生い立ちと親孝行、幼子のいる家族構成映像をふんだんに交えて、
「この人はこんなに良い人なんです」の方に力を入れて表現する。

(もしかしたら、「愛してくれ」と過剰にあおっている可能性もあるが)

結果的に、
「黒人(正しくはアフロ系子孫)は愛すべき人たちで嫌ってはいけない」
と、かなり歪曲して短絡的に刷り込まれてしまう。

こうして、“嫌い=レイシズム”という認識が生まれる。
LGBTQ+などのことを取り上げる文脈でもほぼ同じ。

これはある意味で正しく、ある意味では大きく間違っていると思う。


#不快な存在

でもここでまた次の疑問が生まれる。

黒人やレズビアンやゲイにも、イヤな奴はいる。
何でそんな奴も含めて好きにならなくてはならないのか。
なぜ嫌ってはいけないのか。

ここで先程の足立区議の話につながる。

「不快と思っても別に良い」

そう。嫌いな人や関わりたくない人がいたって別に良い。

それがたまたま黒人やLGBTQ+だっただけ。

僕はすっきりした。
別に嫌いな人がいたって、それは普通のこと。

もはや清々しいほど「胸のつかえが取れた」と思った。

そう感じたのは一瞬で、直後にそもそもの問題に立ち戻ることになる。


#人をカテゴライズして語るな

あれ?じゃあ何が問題なんだっけ?
黒人やレズビアンやゲイが嫌いでもいいんでしょ?

いや、違うわっ!

ここでやっと、大きな違和感の源流に辿り着く。

黒人のAさん個人のことも、全体としての黒人のことも、
どちらもまとめて“黒人”という言葉で括って語るからややこしくなる。

「Aさんが良いことをしました/悪いことをしました」
と言ってくれればいいのに、
黒人のAさんが良いことをしました/悪いことをしました」
と、まず黒人であることに注視させる。

個人と複数を同じ総称で呼び、
別に扱う時も、人の意識を故意にカテゴライズ操作してから現象を伝える。

これが誤認識を生む。
場合によっては一部のメディアもこの勘違いに飲まれている可能性がある。

Aさんを好きと語っても嫌いと語っても構わない。
(たまたま黒人の)Aさんを好きと語っても嫌いと語っても構わない。
但し、故意に黒人を意識したり、“黒人”と一括りにしたなら、
好きや嫌いを語ってはいけないし、そもそも一括りにしてはいけない。

だから、LGBTと一括りにした上での、
「不快と思っても別に良い」発言は、二重の意味でやっぱり間違っている。


#差別が生まれるポイント

黒人などと人を一括りにカテゴライズしてはいけない
ましてや一括りに対して好き嫌いや優劣を語ってはいけない

「好き」などのポジティブ感情も、一括りに対して向けるものではない。
それは個人を見ていないという意味で、どこか馬鹿にしているように思う。

敬意を表したいのであれば、単に「Aさんが好き」という方が気持ちいい。

同時に、「Aさんが嫌い」と個人に向ければ、嫌いも差別ではないと思う

だから前述の“嫌い=レイシズム”は、
たまたま嫌いな人が黒人だったのであれば仕方なく、レイシズムではない。
黒人だから嫌い、黒人のAさんが嫌い、となるとそれはレイシズムだろう。

・・・・・

最後に。

ここまで書いて良いのか少し悩むが、
メディアの取り上げ方などを見ると、
本当にこの問題を解決したいという想いもあるのだろうけど、
どこかであおっているような印象を受けるのは、僕だけだろうか。

また黒人が暴力を振るわれました!(因みにAさんです)
犯罪者はゲイでした!(因みにBさんです)
偉業を成し遂げたのは障がい者でした!(因みにCさんです)

取り上げ方はそれで良いのだろうか。
その方がPVや視聴率を稼げるからだろうか。
Aさん、Bさん、Cさんの事として報じれば良いのではないだろうか。
穿ったカテゴライズで特徴付けしないとニュースにならないなら、
そんなことは最初から報じなければ良いのではないだろうか。

黒人やゲイや障がい者であることは、補足でも付けなくて良いように思う。

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