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自由な、人との距離感

 先週、学校カウンセラーの先生と、こんな話をした。
「自分で、”ここまで”とするしかないですからね」
 飲み会の断り方を例に、先生は話してくれた。
 たとえば、いつもなら誘われれば付き合うけれど、そういう気分でないときもある。そんなとき、自身をよく理解している人は、無理せず、自分の今日の距離感は”ここ”と線引し、適当に言い訳して断る。
 つまり、距離を計ることを他人に期待するのでなく、自分で決めるということだ。なぜなら、自分のことは自分しか分からないから。
「”こういう付き合い方が良い”というのがある人は、他人に対しても同じことをしますから。なぜなら、自分は他人にそうしてほしいから」
 先生にそう言われ、自分のことを顧みて、「本当に、そう思います。私も、最近、自分が人にしてきたことを反省しましたから」と答えたら、先生は優しく微笑んでいた。
 プロだから、聞き方も話し方も計算の上だと思うけれど、人との距離の取り方を、私が理解できる段階と見込んで話してくれたのだと思っている。

 自分自身に対しても、人に対しても、この考え方はとても大事だと思っている。人との関係性に、答えはない。夫婦ならこうあるべき、家族なら、友達なら、恋人なら、は危険だと思う。自分を守るという意味でも、相手を守るという意味でも。土足で踏み込む、そういうことになってしまう。
 
 私は、今まで、”子どものため”という大義名分のもとに、保護者同士がもっと連携するべきと、保護者同士も関係を築いていくことを他人に求めすぎていたかもしれない、と思っている。
 価値観が違う人に傷つけられてから、「あ、私がやってきたことも、あの人にされたことと同じだったかも」と思うようになった。

 もちろん、人の考えていることなんて分からないし、自分のコンディションもいつも違うし、いつも上手くやることなんてできないと思う。でも、固すぎる信念は、すごい勢いで間違った方向に進んでしまうかも、と気をつけることはできる。柔軟さが大事だと思う。

 柔軟さがすごい友人がいる。先週、いつもスキマ時間でしか会えない、超多忙なその友人と、大型ショッピングセンターに行った。
 友人は、最近、自分に関わる人の問題を、いろいろと解決しなければならなくなり、一つ一つ向き合ったばかりだった。個人的なことなので内容は言えないが、友人は、一つも投げ出さず、自分が窓口になって人と対話して、解決の方向を探ったのだった。

 対話は、難しい。みんな大人として形ばかり他人の言い分を聞けるという態度をとるけれど、実際は自分の言い分がどこまで通せるかという話し合いになってしまっていることが多いと思う。
 誰も本心なんか言わない。単純に、相手の振る舞いが気に食わないというのが本音なのに、大人なら騒音に気をつけるべき、とか、親なら子どもが周囲に迷惑かけないように気をつけるべき、とか言ってくる。

 友人は、相手の本心をちゃんと聞け、受け止められる。それでいて、分かり合えない溝をむりやり埋めようとせず、自分ができるのは”ここまで”です!ができる。喧嘩にならず、冷静に、適当な距離がとれる。大人だな〜と、私は心底尊敬している。

 その友人が、車を出してくれ、私一人では子を連れて行くのがしんどいから全然行ってなかったショッピングセンターに連れてってくれ、何をするでもなく可愛い雑貨を見たり、ランチを食べたり、そんなことができて本当に幸せな一日だった。
 友人が、帰りの車の中で言った。
「私は、子どもは?とか、人に聞かない」
 子どもを持つか、持たないか、できるか、できないか、これはとても個人的なことだ。私の親世代の人たちは、わりと普通に聞いてくることだが、個人的背景も抱えている想いも全然違う事柄は、距離が遠い人にさらっと話せるようなことではない。それをさらっと聞いてくる人の価値観を否定する気はない。その人には、その人の生きてきた世界がある。

 居心地のよい距離は、自分で決める。誰とどれくらい、どんな距離で付き合うかも、固定概念にとらわれずに決めたいと思う。そう思うと、自由な人付き合いの世界が開けてきそうで、わくわくする。


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