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孤独は、自分が自分であること

  気持ちが、くすぶっている。
 子どもは大事だが、朝から晩まで絶え間なく、単身でいるときの半分も”考える”ことができない状況が耐え難い。”考える”ことは、自分が自分であることの証明だった。今、”自分”は、絶え間ない他者(子ども)からの要求にさらされて、それを解決する存在となって、”考える”ことをやめてしまった。

 今は、多くの人が発信できる世の中なので、子育て(乳児から幼児)が、いかに配慮を必要とする仕事か、やったことがなくても想像できる人は多くなったんじゃないかと思う。子どもは、要求する。まだ確立されていない”自分”を優しく受け止める器のような存在を。

 子が生まれてから約八年、家事育児に専念しながら、自分の価値を考え続けてきた気がする。
 子どもを育てるのは、とても価値ある仕事だと思う。一方で、何も生み出せていない労働の連続とも感じている。価値がある、と、価値がない、という両極を振り子のように揺れ動いてきた。
 というのも、私自身、子育てを、真に価値ある仕事と感じられていないから、ではないかと思う。

 子育ての価値を感じるには、親の私自身があまりにも軽んじられているような気がしてならない。
 たとえば、(まだやっていないが)PTA役員など、やって当たり前なので報酬はなく、かつ、何か失敗すれば批判だけされる。というと、「必ず批判されるとは限らない」と反論されそうだが、大きな集団になればそれだけいろんな考えが存在する。面と向かって言われなかったとしても、どう思われるか分からない安心できない場で、わざわざ役員をやりたいとは、私は思わない。
 これが仕事だとして、無報酬で批判だけされるリスクがあることを誰がやるだろう。それを当然引き受けるべき仕事と押しつけられて、私自身を軽んじられているのに、どうしてそこに価値を感じられるだろう。

 子どもたちは、どんなときも受け止められるべき、と、多くの人が考えていると思う。安心できる場で、自分の意見を言っても責められず、誰かと意見がぶつかったとしても批判されず、個人攻撃されることがない、そういう環境が必要だ、と。
 でも、大人たちの環境はどうだろう?

 私は、自分の手で価値を生み出したい。大事な子どもたちに紐付いた価値を。私自身が本当にやりたいと思える活動に力を注ぐことで。そのうえで批判されるのは構わない。私は批判されたくないのではない、押しつけられた仕事で批判されたくないのだ。

 何をしたら良いか、それは自分でもよく分からない。
 以前は、自分は子どもたちの居場所を作りたいのだと思っていた。”学校”は社会だ。だから、適応した子には居場所になるが、できなかった子には居心地の良くないところだと思う。なので、そういう子にとって「社会」と「家(などの自分のテリトリー)」の間らへんの”場”を作りたいと思っていた。だから、コミュニティ食堂の運営に関わってきた。
 でも、今はそれが本当にやりたいことなのか、疑問に思っている。
 コミュニティ食堂に参加していたときは、そこが私自身の安心できる居場所だった。引っ越して、そのつながりを失い、今は私自身に居場所がない。まずは、自分の居場所、自分が居たいと思う場を見直すことから始めないとならない。 

 この作業は、本質的に孤独で辛いものだと思う。どこかの集団に入り、その人たちの共通認識に染まるのは、孤独ではないという意味で楽かもしれない。それこそ、自分の疑問には蓋をしてPTAなどの集団に染まって上手くやれるなら、ある意味、居場所を得ることはできる。でもその代償は、疑問を持っている自分を失うこと、だ。

 一番良いのは、自分がやりたいと考えていることで「仲間」を得ることだ。
 以前、教員で、かつ居場所づくりをやっている方と話す機会があり、アドバイスを頂いた。もう数年前になるが、今でもよく覚えている。仲間を得て意気投合したからといって、同じ方向に、同じパワーで進んでいけるとは限らない。

 今、私は孤独で寂しいので、一緒に活動できそうな仲間がいれば、すぐに飛びついてしまいそうな気がしている。活動する中で、お互いの存在が結びついて、思いがけず面白い方向に進んでいけば、それは良いと思う。でも、安易に”自分”を売り渡すような活動はしたくない。

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