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どのコミュニティにも属せない人間

現代では多種多様のコミュニティがある。

ネット上にはコミュニティへの入口がいたるところに張り巡らされ、それぞれが強烈な引力を放っている。

かつては社会不適合者とされた者の多くも今ではこの引力に吸い寄せられ、「同じ悩み」や「同じ怒り」を集団内で共有するようになった。


だがどうやら僕はどのコミュニティにも属せそうにない。

「集団」に共通する独特の臭気が鼻について仕方ないからだ。

それはある種の鈍感さだったり、高慢さだったり、帰属意識だったり、排他性だったり、思考の怠惰だったりする。



人は自分と同じ意見の人間に囲まれると自らの正しさを確信する。

その瞬間から慢心が体中を蝕み、思考の体力を根こそぎ奪う。

かつての強敵が味方になった途端に弱体化してしまうように、個人では魅力的だった人間も集団に属した途端にその魅力を失ってしまうのである。


こうした醜さは、その集団が「弱者」の集まりであっても「強者」の集まりであっても平等にもたらされる。

たとえ弱者であっても集団に属して力を手にした途端、ある種の醜さを身に纏ってしまうのだ。

ちょうどフランス革命で一念発起した民衆のように。



世の中には集団の一員となることに喜びを感じる者が多いようだが、僕は集団の一員となることになんとも言えない気持ち悪さを感じてしまう。

「一体感」「一致団結」「みんな」なんて言葉を聞くと、全身に鳥肌が立ち、思わずその場から逃げ出したくなる。

全体がひとつの方向を向いていると、それに抗いたい衝動が抑えられない。


たとえば世の炎上騒ぎでは、失言や非常識な行動をした者ではなく、それを一斉に叩く者のほうこそ僕は不愉快に感じる。

ちょっと前のコロナ騒ぎでは、対策や方針そのものではなく、異分子を許さない空気感がなにより気持ち悪かった。

思いやりを語る人間の思いやりの無さが恐ろしかった。

一体感に心地よさを感じる人間からすれば、僕のような人間は不快で仕方ないだろう。

個人の狂気はかなり稀なものである。──しかし集団、党派、民族、時代となると、狂っているのがつねなのだ。

フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』中山元訳,光文社.

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