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暮らしのなかの美しさ ‘いのくまさん’と翠雨

今週6月11日よりGalleryCafe3にてしらいわゆうこさんの展示「翠雨」を開催しているのですが、しらいわさんの作品に触れたとき、あることばを思い出しました。

ちなみに翠雨とは、草木の青葉を潤すように優しく降る恵みの雨、という意味です。

美は何気なきところにも静かに存在する 

<猪熊弦一郎>

梅雨入りした今日この頃、まさに青葉に降りそそぐ雨を、私たちは見ていると思います。

そして、見過ごしている。

仕事への行き道、自宅への帰り道、その雨粒や葉のきらめきに心をとめられたでしょうか。

私自身も、子連れでそれどころではない!ことの方が多いのですが、時々、意識して足をとめるよう心がけたいと思っています。

さて、今回は、暮らしのなかの美しさについて書いてみたいと思います。

暮らしの中にある美しいもの。

それは、なんでしょうか?

それは当然、人それぞれ、違うでしょう。

たとえば、私の場合、

公園の木漏れ日、

紫陽花の葉の上の雨粒、

ジャムを作っている時、水にさらすさくらんぼの鮮烈な赤色、

赤ちゃんの真珠の様な涙、

夜中こっそり飲むのノンアルビールの泡、

ろうそくの灯り、

そんなところが身近です。

こういうものことが、山のような洗濯物やら、子どものおもちゃやら、仕事の物ものやらの中に散在するのが、今のところの私の暮らしとなっています。

最近、偶然、暮らしの手帖という雑誌のバックナンバーで猪熊弦一郎さんの特集を読みました。

いのくまさん?

それまで、名前も知らなかった人ですが、特集記事にある写真や文章の言葉が、うちの主人がギャラリーをはじめた当初によく話していることとあまりに似ていたので関心を持ちました。

スーパーの帰りにでもふらっと立ち寄って作品を見てくれればいい。

つまり、何の気なしに作品を見て、その人自身が自分の感性でもって画面の中の美しさを味わってくれればいい。

その様な内容でした。

興味を持ったらついつい調べてみたくなる私としては、いのくまさんを調べてみることにしたのです。

そして、猪熊さんの著書を一通り読みました。

「猪熊弦一郎のおもちゃ箱 やさしい線」という著書の中で、

第二次大戦中、従軍画家としてビルマへ赴かれた時のことを回想しています。

手廻しのオルゴールを手荷物に入れていた猪熊さん。長くなりますが、上記の著書から引用させていただきます。

***

「最後にビルマにつれて行かれたが、この時もこのオルゴールは私のトランクの中にあった。タイ・メン鉄道の建設を描くためだ。夜寝ていると何とも言えない不思議な野獣のにおいと、重い咆哮が聞こえて来た。私はそっとこのオルゴールを取り出して廻してみた、おそろしいこの真黒のジャングルの中に、およそ世界を異にした実に可愛いワルツのメロディーが流れて、現実とは思えない様な気持ちになり、いつまでもこの小さなハンドルを回し続けていた。この小さな箱に日夜どれだけ慰められたかしれない。隊長さんが猪熊さんはこんな戦地にいていつもニコニコしているのはどうしてですかと聞かれた。私は即座に『私は画家です。このジャングルの中で見るもの聞くもの何でも私に不思議を与えてくれるので一つ一つが面白く美しいのです』と言うと、この隊長は感じたのだろう。『私には1人の娘がいます。もし無事戦争が終わって日本に帰ることが出来たら、娘は画家にしてやりたいと思います』と言われた。沢山の兵隊が毎日のように死の世界に消えていく中で、私は芸術の力で生きていくことが出来た。」(p192)

***

どんな状況にいても、身の回りに美しさを探そうとする姿勢に脱帽するとともに、隊長さんの一言は子育て中の私にとってとても深淵な言葉として受け取られます。

さて、話題を暮らしの中の美しさに戻して、もう少しお付き合いいただきたいと思います。

暮らし渦中にいると、どうしても楽しめないことや息詰まることに出くわします。

そんな時、いのくまさんの様な芸術家の眼を借りてみてはどうかと思うのです。

どんな時にも、何気ないところに静かにそこに在る美しさはないか探してみたいと思うのです。

たとえば、私の場合、

散乱するおもちゃの配置が美しかったり、

うっかり置いておいた小麦粉を台所にぶちまけられた時の潔さ、

水たまりに入ってしぶきをあげる楽しさ、

大人にとってはnot welcomeなことでも、いのくまさんの眼を借りれば、

「こらーっ!」と怒り狂う必要はなく、乗り切れるかもしれない。

読者の方は、どうでしょうか?

こっそりと静かに、あなたの周りに隠れている美しさはどこにいるでしょうか?




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