ウサギ

この辺りに来るのも久しぶりだな、そんなことを思いながら高森は歩みを進めた。
確か前回来た時は、休日だったにも関わらず雨相本人ではなく、その妻である朱里から連絡が来て、急いで向かったのだった。
しかもそれも、歯医者に行きたくない、なんていう子供じみた理由で、なんとか説得の上歯医者に行かせることには成功したが、せっかくの休日を棒に振ったのを思い出した。

そもそもの始まりは先週のことだった。
少し前から予定していた打ち合わせだったが、3日ほど前になって日付をずらせないかという連絡が来た。
高森としても急を要していたわけではなかったし、雨相の言う通り今日にずらしたのだ。
そして、今日もいつもと同じ喫茶店で行うのだろうと思っていたが、二日前に連絡が来て、もし可能なら自宅に来てほしい、と言われたのだった。
自宅にわざわざ招くということは何がよっぽどの事情があるのだろう。高森は付近のスケジュールが詰まっていなかったこともあり、快諾した。
そして、今日に至る。

部屋の呼び出しボタンを鳴らすと雨相が答えロックが解除された。前回来た時も思ったが、やはり立派なマンションである。
都内でもいい場所に建てられたこのマンションには、いわゆるコンシェルジュが常時おり、このマンションの中には住民であれば無料で使えるジムやシアタールームまであるらしい。さすがである。
家の前でもう一度インターホンを鳴らすと、雨相がどうぞ入ってください、と答えた。
「お邪魔します。」
「ああ、高森さん待ってましたよ。」
「どうも。」
少し遅れて朱里もやってくる。
「お久しぶりです、高森さん。」
「お邪魔します。奥様もお元気そうで。」
「まあまあとりあえず中に入ってください。」
そういって雨相は高森をリビングに通した。
「適当に座ってください。」
真っ白に輝いてすら見えるソファーを指しながら雨相は言った。
「ありがとうございます。あ、これつまらないものですが。」
忘れないうちにと、雨相は都内の駅のデパ地下で買った菓子折を渡した。
「ああ、どうも。あ、これ僕の好きなやつじゃないですか。」
もちろん雨相の好みは知っている高森は、雨相がお気に入りの菓子を買ってきたのだった。
「もちろん。」
「コーヒーでよろしかったですよね。」
朱里はコーヒーカップを乗せたお盆を運んでやってきた。
「あ、はい。ありがとうございます。」
「朱里ちゃん、これ貰ったんだよ。」
「あら、これ拓夢さんの好きなお菓子。いつも本当にありがとうございます。」
「いえいえ。こちらこそ、雨相先生にはいつもお世話になってますので。」
「それほどでもー。」
「拓夢さん。」
朱里はピシャリと叱りつけた。
「ごめんなさい。」
「いやいや。」
「とりあえず立ち話もなんですので、お座りください。」
「あ、どうも。」
雨相は朱里に言われた通りに座り、2人も席に着いた。
「で、今日はどうされたんですか?」
「いや実は、見てほしいものがありまして。」
雨相は悪戯っぽく笑った。
「見てほしいもの、ですか。」
「ちょっと待っててくださいね。」
そういうと雨相は席を立った。
「すみません、本当くだらないことでお呼びだてしてしまって。」
「ああ、いや。」
朱里は先に謝った。
「今戻るので、ちょっとだけ目をつぶってもらえますか?」
雨相は部屋の外から少し大きな声でそう言った。
「分かりました。」
言われるがまま目をつぶる高森。
足音で雨相が近づいてきて、目の前の席に座ったのがわかった。
「じゃあ、目を開けてください。」
「はい。」
高森がおそるおそる目を開けると、そこには可愛らしいウサギを抱えた雨相の姿が。
「じゃーん!」
「ああ、ウサギですか。」
「はい、飼い始めたんです!」
「ああ、いいですね。」
「なんか、反応薄くないですか?」
「普通はこういうものですよ。」
朱里が戒める。
「いや、可愛いですね。はい。」
高森もなんとか反応してみせた。
「そう、可愛いんですよ。」
「そうですね、可愛いですね。」
「偶然ペットショップに行ったら一目惚れしちゃって、それで飼い始めたんです。」
「へえ、そうなんですか。」
「名前なんだと思いますか?」
「名前、ですか。」
犬ならポチで猫ならタマが常套手段だが、ウサギの名前と言えばなんだろう。
「ヒントは見た目です。」
「見た目ですか。」
ベースは白っぽいウサギだったが、頭部の一部は黒っぽい毛色だった。
「うーん、パンダちゃんとかですか。」
「違います。ちなみにこの子は男の子です。」
「ああ、うーん……」
「拓夢さん、高森さんも困ってますから。」
朱里が助け舟を出す。
「すみません。」
「じゃあ答え言いますね。」
渋々納得した表情を浮かべる雨相。
「この子の名前は、ちょんまげです。」
「ちょんまげ、ですか。」
なるほど、そう言われればちょんまげに見えなくも、いやそれほど見えない。
「どうです、可愛いでしょ?」
「そうですね。」
とりあえず、今日はまともな打ち合わせができる気がしないなと思うのだった。

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