ルージュ

 会社勤めというのは大変である。
 朝早い時間に目を覚まし、全身を押しつぶされそうになりながら満員電車に乗り、職場へと向かう。
 仕事に時間ともなれば、営業で各地を飛び回り、それで仕事を取ってこれることもなかなかなく、会社に戻れば上司に絞られる。
 そんな人たちからすれば、自分の都合で働くことができ、ある意味給料だって青天井な自営業はどれほどいいものか、とあこがれるだろう。
 しかし隣の芝生は青く見える、その一言に尽きる。
 もちろん自営業には自営業の大変さがあるわけだ。
 上司こそいないかもしれないが、当然のように取引相手はいたりするわけで、また会社勤めと違って安定や最低限の給料が確約されているわけでもない。
 やはり何事も、メリットの裏にはデメリットがあるのだ。

 苦心の末、一作を書き上げた雨相はしばしの休息とばかりに羽を伸ばそうかとも思ったが、そう簡単にはいかない。
 何かを生み出し終わったということは、それはつまり、また新たに何かを生み出さなければならないのである。
 いつも、もうこれ以上は何も浮かばない、という状況を迎え、それでも生み出し、いやひねり出しているのである。
 しかしまあ焦っても仕方ないのも事実。
 とりあえずはアンテナを張って暮らすしかあるまい。
 リビングのソファーに座っていると、机の上に朱里の化粧道具と鏡が置かれていた。
「あれ、どこか出かけるの?」
 キッチンの方にいる朱里に声をかける。
「お買い物に行かなくちゃなのよ。」
「あ、そうなの。え、僕もちょうど書き終わったし、一緒に行っていい?」
「うーん……変なもの買ったりしない?」
 買い物についてきたかと思えば、変なものを買おうとする雨相を、朱里はよく思ってなかった。
「それは、うん。」
「そう言っときながら、それなに、とかって聞くと、いいアイデアが浮かびそうで、って押し切るんだから。」
 痛いところを突かれたのか、何も返せなくなった雨相は、目線を机の上に戻した。
「これさ、なんでルージュっていうの。」
 真っ先に目に入った口紅を見て、そう尋ねる。
「何、ごまかしてるつもり?」
「いやそうじゃなくて、気になったから。」
 またそれか、と半ば呆れた表情の朱里。
「何でって言われても知らないわよ。」
「ああ……」
 雨相はポケットからスマホを取り出すと何やら調べ始めた。
「へえ、口紅を表す和製外来語なんだって。」
「あ、そうなの?」
「で、フランス語では赤のことを言うんだって。」
「へえ。」
「他の赤はどうなんだろう。」
「他の赤?」
「ほら、朱里の朱とか紅とか緋色の緋とか。」
「いや知らないわよ。」
「ちょっと待って。」
 雨相は真剣そうな表情を浮かべる。
こうなるとどうにもならないことを知っている朱里は黙った。
「うーん、ちょっと調べてみるか。」
 そういってソファーから立つ。
「ねえ、てことは買い物は?」
「あ……」
 思い出したかのように、申し訳なさそうな表情を浮かべる雨相。
「私が行ってくるから、お仕事頑張って。」
「ごめん。」
「いいわよ、分かってるから。」
 朱里は笑いながらそう言うと、ソファーに座り、化粧を始めた。

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