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本当の愛に触れるには早すぎる

「30代が人生で最も楽しい時期だった」と40代の自分は思っている。
50代になっても60代になっても「楽しさ」を基準にすれば、30代には敵わないだろう。

今振り返れば、30代の僕は自由を最大限に謳歌していた。
稼いだ金の大半は酒や旅行や車や服に費やし、気になる酒場には東西南北関わらず足を運び、たくさんの酒を味わい、色んな人に出会い、いくつかの奇妙な体験を経て、何人かの素敵な女性と巡り合い、淡い夜を過ごしたこともあった。恋愛では深く傷つくことが多かったけれど、その痛みと真に向き合い乗り越えることは、成熟した大人になる上で通過すべき過程だった。

今思えば、僕は若い頃に深く刻まれた傷や、愛を手に出来なかった心の隙間を埋めるために、すがるように自由から得られる刺激を求めていた。当時の僕は自由がどこかに導いてくれると盲目でいられたのだ。その結果、30代の体験は外側から僕を成熟させ、楽しさを感じさせてくれたけれど、それらは幸せのような安らぎとは異なる部分を満たしていた。
いわば楽しさは恋と似ていて刹那的な快楽で、幸せは愛に近く継続的な安らぎを言うのかもしれない。

そんな僕は30代も残り数ヶ月を切った頃に、はじめて自分のことを愛してくれる人に出会った。彼女は着飾った大人の僕にも無防備な子どもの僕にも惹かれていて、何より僕の奥底に潜む深い部分を受け入れてくれた。

「あなたはとても成熟している大人の男性に見えるけれど、奥底には少年が隠れているのね」

自由に満ちて愛とは無縁だった僕の人生に30代が終わる直前に転機が訪れたのだ。

彼女は僕にとってビートルズの「イン・マイ・ライフ」の歌詞のような存在だった。「今まで出会ってきた人や素晴らしい体験も君を前したら敵わない」あるいは、今まで色んなことで傷ついて自分なりに乗り越えてきたからこそ彼女と出会えたとも思えた。大げさにいえば彼女との出会いは、僕の人生に訪れる数少ない奇跡だったのかもしれない。

「わたしはあなたを愛している。あなたにわたしを愛する覚悟はあるかしら」

ある日彼女は僕にそう言った。生活を共にするには、お互いの気持ちだけでは十分ではないことを彼女は知っていた。彼女は僕とは全く異なる境遇をくぐり抜けていて、僕よりも遥かに成熟して現実を見ていたのだ。

今まで触れたことのない深い愛。それをやっと手にしたのに、自由と刺激に満ちた世界に浸かっていた僕の心は、その愛さえ大切にすることができなかった。頭では愛の大切さと自由の有限さに気付いていても、心はまだ自由を求めていたのだ。若さゆえに刹那的な自由に浮かれて、安らぎに甘んじるほど成熟していなかったのだろう。

未熟な僕は今まで触れたことのなかった愛よりも、当たり前に手にしていた自由がなくなることを恐れていた。彼女はそんな僕の心を見抜いていたのだ。

「あなたはわたしと離れた方が幸せになれると思う」

葛藤の末に彼女は自らに芽生えた愛を押し殺し僕から去っていった。そしてようやく僕の心が、自由の有限さと愛の深さを理解したのだ。

本当に大切なことに気づくのが遅すぎたと悔んだ末に、僕は何度も彼女の心を取り戻そうとしたけれど、彼女は応じることなかった。やがて連絡する手段も絶たれ、深い喪失感と共に40代がやってきた。今まで乗り越えてきた失恋の苦さとは異なり、重い現実が僕の心を鋭く刺した。

愛の喪失は自由の色合いをも変えてしまったし、もう30代のように盲目的に自由を求めることもないだろう。

彼女との別れが僕が新たな世界を生きる頃合いであることを示唆しているのであれば、40代の僕が新たな価値を見つけるために通過すべき痛みなのかもしれない。

その痛みを経て僕が新たな価値を見つけるならば、今はまだ絶望するには早すぎる。




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